信じてもらえないかもしれないが、私はノイズキャンセリングの原理を自力で思いついた。中学生のころ、そのころ読んでいた本で、未来はとてつもない騒音に満ちた世界であるかのように書かれたものがあり、ちょうど吹奏楽部などに所属していた私は騒音公害について考えてみたのだ。音というのは波である。正確に言うと、池などに立っている波とは違って、その密度の大きいところと小さいところが伝播する、いわゆる縦波というやつなのだが、その性質は池の波やロープを伝わってゆく「横波」とあまり変わらないので、イメージするときにはその方が都合がいい。いま、マイクで騒音を集め、その音の波と同じ強さで振れ方が反対向き(同強度逆位相)の音を作ってスピーカーから鳴らしてやるとどうなるか、波同士で、反対向きに揺れている同じ強さの波を合流させると、理想的にはその波は消えてしまう。まったく音の無い空間が作り出せるではないか(図)。
で、試作品を作って、試してみたとなればなかなかのものなのだが、そうはしなかった。まず第一に、それほどの電子工作の知識はその時の私にはなかった。また、私がこんなに簡単に思いつくことくらいだれかが前に必ず思いついているはずであり(これはきっとそうに違いない。このアイデアの特許は遥か前から認められていたのではないだろうか)、それがまだ製品化されていないのは必ずどこかに落とし穴があるはずだ、と思えた。だいたい、原理的にこれで音が消えるのは、スピーカーとマイクの位置が適正な場合だけで、そこからずれた位置ではかえって騒音を増幅するということになってしまう(図)。そこまで考えて、私はこのアイデアを投げ出した。
それから10年あまり、すっかり少年のころのみずみずしい創造力を失った私が某パソコン誌上で見たのは、ソニーの「ノイズキャンセリングヘッドホン」だった。電光のように記憶がよみがえった。これはまさしくあの原理を用いた消音装置である。ヘッドホンというアイデアをなぜ思いつかなかったかという無念がまずあって、それから本当にこんなアイデアで騒音が消せるのかという疑念が沸いてきた。いまや私にできることは、このヘッドホンを買ってきて試してみることだけだった。なかなか高価なものであって、1万円近くしたのだが、買ってきて試してみると確かにこれは静かになった。かけたまま歩いてみると、耳栓とはまた違った、笑ってしまうくらいの無音状態が作り出せる。
さて、ここでもう一つ疑念がある。同位相同強度の波を元の波に重ねると、波の高さは二倍になる。この波を作り出すために使われたエネルギーは、波二つ分で、強さももちろん二倍だ。では逆位相同強度の波を元の波に重ねたとき、無くなってしまった波を作っていたエネルギーはどこに行ったのだろうか。
昔読んだ本であった回答は(光に関するものだったが)、重なった光は無くなってしまったわけではない、たとえば干渉縞をスクリーンに作り出したとき、スクリーン上で「谷」になって暗くなっているところも、ちゃんと温度が上昇する、というものだった。
これはエネルギー保存則が成り立っていることを示すためには明快な回答だが、本当にそうだろうか。干渉によって山と谷ができるような実験の場合、山と谷を均せば普通にスクリーンに投影したのと同じ明るさになるような気がする(ちょうど、私の考えた騒音消去装置が、場所によってはかえって強い騒音を作り出してしまうように)それに、光子はそっちの方に行かないのだから、いかない方向で温度が上昇するというのも変な感じだ。
というわけで、ここまで書いてきて気がついたことは、私はこの答えを知らない、ということだ。大学で得た量子力学の知識をもってしても、にわかには解けそうにない問題である。無知をさらすようで決まりが悪いのだが、この場はちょっと考える時間をいただく、ということで逃げを打ちたい。申し訳ない。
同強度逆位相の波が打ち消しあうとき、その波のエネルギーはどこにいってしまうのだろう。この疑問を、考える時間をいただいて、考えてみた。なかなか複雑な問題なので、一歩ずつ解いてゆこう。まず、干渉の場合である。
図の左端から音なり、光なりがでているとする。図の中央には二つ穴があけてあるスリットが置いてある。こういう装置を作ってうまく条件を整えると、図の右端にあるスクリーンに縞模様ができる。これが干渉である。この現象が起こる原因を一言でいうと、穴のところから位相の揃った、強度の同じ波が出てくるということにつきる。波というのはこういう穴があると、そこを通ったあと位相を保ったまま広がるので、穴が二つあると二つの穴から出てきた波はおたがいに位相も(うまくすれば強度も)同じになる。こういう二つの波が出会うと、上のノイズキャンセリングの原理と同じで、方向によっては打ち消しあって弱く(図で灰色になっているところ)、別の方向では位相が揃って強くなる(図でしましまになっている方向)わけである。
さてこの場合、エネルギー保存則は成り立っているだろうか。波はそもそも小さな穴を通ってきたことによって弱っているわけだが(図ではあまりそうは見えないが)、穴が二つあるわけだから、スクリーン上の波のエネルギーの合計は、穴が一つの場合の二倍なければならない。
一般に、振幅aの波があると、その波の持つエネルギーはaの二乗に比例する。どうしてaではなくaの二乗に比例するのかを簡単に説明しようとすると難しいのだが、たとえば、二倍の長さにのびたバネは、四倍のエネルギーを蓄えていることを思い出してもらえると理解できるかと思う(図)。
さて、干渉縞が生じているスクリーンの、それぞれの位置での波の高さはどうなっているだろうか。高校の物理の教科書にあるように計算してもいいが、ここではもうすこし直感的に考えて、まずその振幅は穴を通ってきた波の振幅の二倍から〇倍になる。正弦波同士の重ね合わせだから、二倍と〇倍の間の振幅もサインの形で書けることが予想される。つまり、スクリーン上のある点xでの振幅は2sin(kx-b)という形になるだろう。これを二乗してエネルギーにして、xについて平均をとると、2となる。以上、かなりいい加減な計算だが、一応、穴2つ分の波のエネルギーは保存されているわけである。この場合、波の来ないところ、振幅が0のところにはエネルギーは伝達されないので(その分スクリーンで明るいところに四倍のエネルギーがゆく)、私が本で読んだ、「スクリーンの暗いところも熱くなる」という説明は間違っていたことになる。考えてみるものだ。
(続く)