猫に起こされた。夜中の2時頃、であろうか。
私は、帰省した生家で眠っていた。私が父母の家に帰るときはいつも、かつて私が自分の部屋として使っていた部屋を使って眠る。大学生になった私が大阪に下宿してからは、たまに帰省する私以外には足を踏み入れる者とてなく、無闇と広い田舎の家の常として、半分物置のようになりながら放置されていた部屋だ。掃除は行き届いていてもどこか生活臭のない、うつろな場所と化してしまっている。
このころ私は、夜眠る前の咳に悩まされていた。昼間はどうということもないのに、夜になり、いざ眠る段になると激しい咳に見舞われるのだ。流行している風邪だろうか。今年のインフルエンザは厄介だという。ただ、それよりも私にとっては年々体力が衰えていて、それで毎年インフルエンザが苦しくなっているという説明の方がもっともらしく思える。日本中で流行っているのなら、日本人全員の体力が落ちているのだろう。
この咳だが、水を一杯飲めば当座は収まるが、安心して眠りにつこうとすると、発作のように咳がぶり返してきて数十分も苦しむことになる。あまりの苦しさに、買い置きの薬を探した。常用の薬箱には、ろくな薬が入っていない。あるのはただ、時間にすら忘れ去られたかのような、埃をかぶった樹脂の箱に入った置き薬である。小袋に分包された漢方薬でいいだろうか。使用期限も確かめず、私は苦いその粉薬を氷のような水道水で飲み下した。そうして再び眠りについて、すぐのことである。
かりかり、かりかり。と、どこかで音がしていた。その音がぴたりと止まる。かわって、がたがたと、戸を鳴らす音。
薬が効いて、うとうととしていたようだ。眠り薬特有の、吸い込まれるような眠気の中にあってそれでも、不器用に出入り口の障子が引き開けられ、猫が部屋に入ってくるのがわかった。猫はどれも、いつのまにか障子を開けることを覚えるようだ。猫は枕元まで来て、にゃあ、と啼いたようだが、その時はもう、私の意識は真っ暗な眠りの淵に向けてまっしぐらに落ちていった。
そうして目が覚めた。窓の外はまだ暗い。足もとに違和感を感じて見てみると、私の布団の上、足のあたりで猫が寝ていた。とすると、さっきのは夢ではなかったのだ。いくら啼いても起きない私に、あきらめて暖かいそこで寝ていたものだろう。確かに寒い。見れば部屋の入り口が、猫によって一猫幅程度開けられている。そこから隙間風が吹き込んでいるのかもしれない。私はなるべく猫を起こさないようにそっと足を抜くと、布団を出た。咳はとりあえず、収まったようだ。しかし本当に寒い。私は部屋の扉をきっちりと閉めると、また布団に戻り、今度は朝まで眠った。
朝、私は一つのミステリに遭遇することになった。猫がいないのである。それ自体は、実はよくあることだ。私より早く起きる父母のところへ、朝ご飯を食べさせてもらうために出ていったのだろう。問題は、部屋の出入り口がぴたりと閉められたままだということだった。
「ふうむ。これはどういうことだろうね」
私は自問した。もちろん、何かトリックが隠されているのである。ブツリガクシャの部屋から猫が煙のように消えるなど、あって良いことではない。シュレーディンガーの猫でもあるまいし。別にシュレーディンガーの猫は壁抜けをするわけではないが。
「扉は閉まっている。私が昨晩閉めたままだ。それなのに、猫はいない」
私の観察によれば、布団には確かに、猫が寝ていたとおぼしきくぼみが出来ている。私が夢を見ていたのではないようだ。とすると、どういうことだろうか。
「君は、目に見えはするが、観察しないんだよ。見るのと観察するのと、区別は明らかだ。たとえば、この部屋へ上ってくる階段を、君は何度となく見ているね」
「ああ、たびたび」
私は起き上がって、着替えながら、そんな会話を思い出していた。
「ところで何段あるかい」
「何段だって? 知らないね」
「そのとおりさ。君は観察によって気づいたことがないのだ。見ていることはいるんだがね。ところで、僕は知っているが、段は」
私は扉を開けると、とんとんと階段を下りながら段数を数えた。
「十四ある。僕は見た上で観察しているからね」
まったく、名探偵でもない私にトリックがわかるはずもない。居間に降りてゆくと、猫はそこで丸くなっていた。一足先に朝食を食べて、満足して眠っているらしい。本当にどこから出たのだろうか、この猫は。トンネル現象だろうか。さまざまな仮説が頭をよぎる。確かに昨晩、二度目に目を覚ましたとき猫は私の布団の上にいた。障子を閉めるときに横をすり抜けて出ていったなら、さすがにそれとわかる。この猫が出た後で、誰かが私の部屋の扉を閉めたのなら納得するが、父も母も、そういうことをする人間ではない。もちろん私の部屋への出入り口はその障子一つだけだ。
私はだんだん腹立たしくなってきて猫のひげを引っ張ってみた。猫はびっくりしたように目を覚ますと、ぶるぶると顔を振った。化け猫なら自分で扉を閉めるかもしれないが、この猫が化け猫なら私はスーパーサイヤ人だ。
この文章は、私の観察力がどう考えても大したことがない、ということを皆さんに示すために書かれている。謎が解けたのはその晩になってからだった。寒さにたえかねて原因を調べた私は、ようやく部屋の窓が全開になっていたことに気がついたのだった。