「と、東海村、だって」
私は、寝ぼけた頭で、どういう意味だったっけなこの単語、と思っていた。
「そだ。東海村。今から飲みに行こう」
「あ、ああ。うん」
長い一日だった。その朝午前三時に静岡県藤枝市の弟の部屋を出発した私たちは、車に乗って河口湖へ向かい、夜明けとともにボートで湖に漕ぎだしていた。
「兄貴にバス釣りを教えてやるぜ」
というかっこいいセリフに乗って、いまだ闇に沈む河口湖を、私たち兄弟三人を乗せたボートは這うような速度で、ポイントへと進む。真っ暗だった空がしらじらと明るくなり、背景から富士山の偉容が浮き上がるようになり、やがて驚くほど透明な湖水を透かして水底から生える水草が見えるようになって、私はふと、このボートが沈んだら大西家全滅だな、と思った。
バス釣りがどうしてこんなに流行したのかという秘密の一端は、レコードがCDになって音楽観賞の質的変化が起こった、という話に通じるものがある。レコードに比べてメンテナンスフリーで、演奏のたびに消耗もしないコンパクトディスクは、その手軽さでついに音楽を趣味以下の存在にした。同様に、バス釣りは従来の釣りが持っていた複雑な装置や煩雑きわまりない準備を、ほぼ極限まで簡略化したものである。釣りざお、リール(糸巻き)、ルアー(擬似餌)。このわずか三種類の装備があれば最低限釣りができてしまう。釣りざおにリールを取り付けて、糸にルアーを結びつければそれで準備が完了してしまうのだ。あとは、竿を振ってルアーを水面に放り込んで、糸を巻くだけ。実に簡単である。それもこれも、凶暴にして知恵が総身に廻りかねる魚、ブラックバスという種が普遍的に日本の湖に存在するようになったからこそなのであるが、そのことの是非は今は問うまい。とりあえず、バス釣りの何たるかを理解するためのみにも、私はその日、竿を振った。
結論から言えば、私がバスを釣り上げて、その獰猛な生命を湖に戻すべきか否かというジレンマに直面することはついになかった。暖かな太陽が夜明けの肌寒さを嘘のように吹き払い、ボートに積み込んだ朝飯がゴミの山になるころまで、湖の上をボートで数キロもうろうろしたことで得られたのは、腕の筋肉痛だけだったのだ。私は、何度か起こった「バックラッシュ」、要するにこれは釣り糸がルアーの位置よりも長く出過ぎて糸がめちゃくちゃにからまってしまうことだが、その処理と復旧にうんざりしていた。
「ビギナーズラック」という言葉がある。どういうわけか、運命は初心者に味方することが多くて、ともすれば一緒にいる経験者よりもよい結果を得られたりするものである、という意味だが、私は、考えてみるとこれまでビギナーズラックを味わったことが一度もない。パチンコも、競馬も、宝くじも、ロトくじも、そういった運が左右するゲームで、収益を得たことがないのである。これらギャンブルは、そのため初体験だけで嫌になって、その後二度と金を使っていない。要するにそういうことなのだろうか。初めに思わぬ幸運を得ると、その後も続けることになるという。
そして、五時間以上も竿を振り続け、ボートを漕ぎ続けて、ついに我々はあきらめた。私はともかくとして、それなりの経験者である弟達にもヒットがないというのは、もうどうしようもない。そういう日である、という結論である。昼前まで粘ったかいもなく、私たちの小さなボートには一匹の釣果ももたらされることがなかった。ちょっと思うのだが、河口湖のバスはすでに退治されてしまったのではないかと思う。それならそれで、いいことだ。
さて、慣れない早起きの反動で、もう半睡状態のまま静岡にとってかえし、たまらず午後を居眠りに過ごした私たちだったのだが、やっと夕方になって目覚めて、私が最初に出会った単語が冒頭の「東海村」だった。色濃く残る疲れの中で、腹減ったなあ、晩ご飯を食べないとなあ、そういえば、河口湖への往復の間、何度か大衆食堂の看板で「丼ぶり」という表示を見たなあ、このへんってそうなのかなあ、という、脈絡のない思考が頭を飛び交っていたときに投げられた言葉だったので、私は「東海村」という単語が、何を意味しているのか思い出すのに多少の間が必要だった。ああ、そうだ。事故があったんだっけ。臨界事故。
「って、どういう意味だ、東海村に飲みに行くっていうのは」
「そういう名前の、居酒屋なんだよ」
は、ははあ。なるほど。
私たちは、まず部屋に残っていた食料を数拳で食物連鎖順位を決めつつ、消費してしまってから、ようやく出発することになった。
東海村は、JR藤枝駅の駅前にあるカラオケと居酒屋の店であった。弟の部屋からバスで五分ほど。線路をまたぎ越す陸橋を越え、地元のストリートミュージシャンがゆずのモノマネをしているそばを抜けて、たどり着いた居酒屋には、壁に大きくネオンサインで「東海村」と書いてある。一体全体、どういう冗談だろうか。シャレになってないぞ、おい。
「結局、ここって東海地方だから、ほら」
「ああ、なるほど『スペイン村』とか『メリケン波止場』みたいな命名法、なんだな。『京都王将』とか『パリ・ミキ』とか」
「えーと、まあ、ざっとはそうかな」
「ヒドイ名前だなあ」
同じ名前の村が実在して、そこで放射能漏れ事故が起こるとは思ってなかったろう。気の毒なことである。中に入るといきなり出入り口のところに男女がたむろしているのに驚く。よほど混んでいるのである。店員が我々のことを無視している間、壁の表示を見回してみたのだが「例の東海村とは関係ないです」という表示がどこにもなかったので、少しがっかりした。そもそも店員たちの様子を見ていても、そんなニュース、天竺よりも遠い世界の出来事としか思っていないような気もする。
「すいません、いま席が一杯で」
何度もアピールをして、やっと応対にきた店員にそう告げられ、私は「やっぱり、臨界中ですか」と言いそうになるのを必死でこらえた。
「三人ですけど」疑問の余地がないように指で三、を作りながら「どのくらいで空きそうですか」
「さあ、ちょっと、三十分か、一時間か」
「じゃ、いいです、ども。お大事に」
最後の言葉を、笑わないように言うのが、私には精いっぱいだった。
その日の藤枝市は本当にどうにかしていたらしく、多くはない居酒屋はどこも一杯で、我々三人は晩ご飯とビールにありつくまでさらに数キロメートル、三軒の居酒屋をうろうろしなければならなかった。地方都市の、さらにベッドタウンらしいというべきか、驚くほど実にあっさりと、藤枝市は闇に飲み込まれてゆく。
「なあ、兄貴」
「なんだ」
それでもすいていそうな居酒屋を探しながら、弟が言った。
「なんか、すまんな、今日はいろいろと」
「いやなに」
私は、弟の後をついて歩きながら、ふと思い付いて、言う。
「なあ、こういうのも、ビギナーズラック、っていうと思うか」