やはり疲れていたのだろう。正月を一ヶ月後に控えた、久しぶりの故郷での休日は、なんともしまらないものになった。かつて自分の部屋だった二階の一室で一日をひたすら寝て過ごした私は、散々惰眠をむさぼったあとでやっと布団から出た。既に日は傾いており、私が起きたのも、部屋の暖房と晩秋の日差しに締め切られた部屋が暑くてならなくなったから、というそれだけの理由である。
すっかり汗に濡れた下着を脱ぎ捨て、普段着に着替える。両親と祖母のいる居間に降りてきた私は、彼らといっしょにコーヒーを飲んでいる客に気がついた。
「やあ、やっとのお目覚めか」
と、からかうように、客が言う。
「あ、こんにちは、早瀬さん」
「こんにちは。君も、ちゃんと挨拶ができるようになったな、感心感心」
『挨拶ができるように』なってからもう二十年以上経っているのだが、何と言っても、子供の頃を知られている早瀬さんにはかなわない。もっとも、それを言えば、早瀬さんには、父の子供の頃も、祖母の子供の頃さえ、知られているのだ。なにしろ、彼は数百年の寿命を持つ、竜、だから。
早瀬さんは、体長三メートル半。翼を広げると全幅一五メートル近くなる成竜である。私の家とは、昔からつきあいがある。というのも、実は私の曽祖父がかなりの遊び人で、そのころの私の家の屋台骨が傾くくらいだったというが、早瀬さんはその曽祖父の経営していた居酒屋の常連の一人だったらしい。おしなべて竜は酒好きなものだが、うちの店で作っていたという地酒が気に入ったのか、それとも何かよほど曽祖父と気が合うところがあったのだろう。それから百年近くが経って、今なお、一年に一度ほどだが、こうしてうちを訪れて、酒を飲み、曽祖父の残した子孫らと語らってゆくのだった。普段は鉢伏山のほうに住んでいるらしいのだが、どうやって生計を立てているのかは知らない。ともかく、竜の友人などめったにいるものではないので、私はその点で曽祖父に感謝している。
早瀬さんは、その、どう見ても細かい仕事などできそうにない鉤爪のついた大きな前肢で、しかし器用にコーヒーカップを口に運ぶと、父に向かってうなずいてみせて、言った。
「さっきの話だが、そういえば、彼ではいかんのかね。私が乗せていってやれば、二時間ほどで帰ってこれるだろう」
彼は、緑がかった金色の瞳で私を探るように見ている。私は、なんのことか分からず、父に聞いた。
「え、何の話」
「ああ、ちょっと届け物があるんだ。岡山の叔母さん家が、保険の書類を送ってくれ、って」
それは、郵便や宅急便で送るというわけには行かないものなのだろうか、という顔を私がすると、早瀬さんが、言った。
「どうしても今日明日中くらいに必要なんだそうだ」
ははあ。
「じゃあ、早瀬さん、お言葉にあまえさせていただけますか」
と、私の言葉を待たずに母が言った。
行くとなれば、いろいろと支度もある。竜に乗るというのはやはりどうしても、自家用車を運転するようには行かない。それに、私が竜の背中に乗ること自体かなり久しぶりだ。暖房の効いた部屋を出ると季節はすっかり冬で、上空の寒さはそれは厳しいものになっているだろう。私は、外出着の上に厚いズボンとオーバーを重ね着し、父の騎竜用ゴーグルを身に付け、マフラーを、顔のゴーグル以外の全てを覆うように巻き付けた。しばらく使っていなかった枯れ葉色の厚いマフラーは、懐かしい匂いがした。渡すべき書類を受け取って、鞄に入れると、オーバーの下の腰に巻き付けて結んで止める。
私の家の庭は、店への客のために、ちょっとした駐車場になっている。その駐車場をいっぱいに使って騎乗体勢をとった早瀬さんに、私は礼を言ってまたがると、見送る父母に向かって手を振り、早瀬さんに合図をした。しっかりとつかまる暇もあらばこそ、早瀬さんはいっぱいに広げた翼を大きくはばたかせ、ふわりと舞い上がった。一瞬の上下感覚の喪失に、くらりとしそうになって、私はあわてて身を乗り出し、彼の首にかきついた。
「しっかり、つかまっているかね」
たちまち十数メートルの空中に飛び上がり、水平飛行を始めた早瀬さんが私に『話し』かけてくる。空中での会話は、普通の音声を使えない。風切り音が声をかき消してしまうからだ。竜はそこのところを能力の一つである『念話』によって解決している。私は、相手に聞こえないとわかっていながら、
「離陸の時はひやっとしたけど、もう大丈夫」
と言った。人間と『念話』するというのは、竜にしてみると雑音の多いラジオを聴くようなものだという。声を出したほうが、相手も私の念を拾いやすいのだ。私のほうにしてみると、竜の、地響きのような声が『念話』になるとテレビのアナウンサーのような端正な声に聞こえるという、そんな違いがある。私の『念話』の声は、昔のように奇麗なままだろうか。それとも、すっかり汚れてしまった私の心を反映して、暗く濁っているのだろうか。
「では、旋回する」
風上に向かって飛んでいた竜はぐっと翼に力を込めると、街道に沿って右に大きく旋回した。二つほどはばたきを入れる。私の足の下で巨大な力を生み出している彼の筋肉の動きが、私にはなんとも頼もしかった。地上では、さっきまで目の高さにあった、ビルや家並みが、ぐんぐん眼下に押しやられてゆく。高度を上げているのだ。道路で小さく、小学生らしい人影がこちらを見て手を振っている。私はまたも、すこし目まいを感じて、彼の首を挟んでいる足に力を込める。
「君も、ちょっと見ない間に、なかなかたいした竜乗りになっているもんじゃないか」
と早瀬さんが「言う」。
「あ、久しぶりですから。ごめんなさい、痛かったですか」
「いやなに」
久しぶりの飛行に緊張している私への気遣いなのだろう。竜は、早瀬さんは、かくも心根の優しい生き物なのだ。
「まだ小さかった君を乗せたことを思い出したよ。首にしがみつかれて、大変だったなあ」
「ははあ、すいません」
私は、マフラーの中で笑った。
「本当に、こうして飛ぶのも久しぶりだ」
「はい」
身を切るような鮮烈な風の中、西を指して飛ぶ竜の背中から、私はただ完璧なまでに赤い、夕日を見つめていた。夕暮れも、近い。