私の故郷は、わりと何度も書いてきたが、決して都会ではない。言葉のどんな意味においても都市部ではない。かといって鳥も通わぬ寒村というわけではないのだが、なにしろ鉄道が通っていないので、他人に故郷のことを説明するのはなかなか骨が折れる。JRなにがし線に乗って、大阪から一時間くらいのところです、というふうなリニアな価値観で表現できれば、どんなにか説明が楽だったろうと思うのだが、現実、近くに何本かある鉄道は、私の町をよけるようにして北へ向かっているのだった。どうもこれには、かつて私の町あたりに通ることになりかかっていた鉄道敷設計画を、当時の町民の猛反発で中止させたという経緯があるかららしい。そのころの鉄道というと当然、蒸気機関車ということになるが、これが通ると、牛が子を産まなくなったり、米が真っ黒になったりというような影響が危惧されていたのだそうである。なんというか、そのころ反対していた人々が、現在に至るまでのどこで「やあ、そんなことはなかったなあ」と気付いたのかなどと考えると、ここであまりこれについてキツい一言を言わないであげたいと思う。
さらに余談だが、私の町には、これは別に誰かが反対したわけではないのだろうが、実は、鉄道が通っていないだけではなくて、国道まで通っていない。なんでも、十数年ほど前に「ないないサミット」という、全国的な町村長会議が開かれて、「大西町長」という、別に私の家とはなんの血縁関係もないわがまちの町長も出席したのだが、この「ないない」というのは、鉄道もない、国道もない、という意味だったそうである。もちろんこれは町民の総体としての意志ではなく、あくまで私の個人的な意見ではあるが、あまりそういうのに出ないで欲しいと思う。
さてそういうわけで、私にとって列車、電車といったものは、常に都会を象徴する乗り物だった。日常ではない、ここではないどこかを走っている憧れの乗り物だった。私の通っていた高校のある隣町にはちゃんと電車が通っていたのだが、しかもその電車というのが、今思うと「天空の城ラピュタ」に出てくるトロッコ鉄道みたいな高架部を通ったりするとんでもないローカル鉄道なのだが、ときにその町から神戸に出かける用事があるたびに、一緒にいる友人達にはとても理由を言えない、奇妙なうきうきした気分に満たされていた私なのであった。こんな感じである。
「うーっす。電車乗るぞでんしゃあー。うぉー。こっちだこっちぃこのホーム。二番ホームだぞにっばんホーム。座れるかな、座れるかなっ。どう思う。ラッシュではなかろーか、なかろーか。おっ、おおおおっ、おおー、やー。来た来た、電車だでんしゃー。おおー、扉開いたとびらー。乗るでしかし。たまらんでしかし」
「…黙ればかもの」
その「電車好き」の気分はやがて私が大学生になって大阪に下宿し、電車が日常になって、というよりも自動車を持っていなかったので電車に乗らなければどこにもいけない境遇になってからも、長い間かわらなかった。結局のところ、私は電車を通学通勤の手段として使わなければならなかったことはこれまで一度もなく、電車に乗るということが、いつも日常ではない、なにか晴れやかな場所への移動でありつづけたからである。まあ、この「晴れやかな場所」は、今やただの買い物であったり、悪友と酒を飲みに出かける程度のことであったりはするのだが。
電車好きがやめられない理由には、私がたまに電車に乗ると、しばしばなにか事件が起こるから、というのもある。以前電車に乗ってきたシャーマンについて報告したことがあるが、ああいう感じである。今回は、正月が終わって、埼玉へ戻る山手線の中でのことであった。…などと書くと兵庫県から埼玉まで山手線に乗って帰ってきたかのようだが、もちろん埼玉にも兵庫県にも山手線は通っていないので誤解しないように、特に故郷の、おばあちゃんっ。えさて、東京駅で山手線に乗り換えて、首尾よく座席を確保した私は、重い荷物を抱えて一息ついていた。と、
「きみなあっ、電車の中で電話するなよっ」
その怒気を含んだ声に、さして混みあっていない車内の視線が一斉にこちらを向いた。発言者は私の隣に座っていた、初老の紳士。そう言われてきょとんとしているのは、紳士の前に立っていた、二十代はじめらしい、青年である。私は気づかなかったが、青年の携帯電話が鳴って、彼がそこにむかって一言ふたこと会話をしたことが、どうも紳士は気に入らなかったようである。
「あ、いや、今山手線の中なんですけど」
イントネーションから、青年は関西出身らしいことがわかる。紳士の言ったことがわからなかったわけではないが、電話の相手を無視するわけにもいかず、というところだろうか。善良そうな顔が引きつっている。
「やめろって、言っているじゃないか。マナーだぞマナーっ」
さあ、それはどうなんだろうか、と私は思った。よく思うのだが、では、電車の中で友達と会話をするのはマナー違反なのだろうか。それと、携帯電話に向かって話をするのとは、周りの迷惑においてどれくらいの差があるのだろう。以前「電車の中で会話をしたいから携帯電話を持っているんだ」という身も蓋もない意見を聞いたことがある。これはいくらなんでも暴言だと思うが(人殺しをするために包丁を買ったんだ、といっても人殺しが正当化されるわけではないから)、現実、目の前でかかってきた電話に出た人に向かって、いきなり注意をはじめるとなると、どっちがマナー違反かわからない。第一、もう、電車中がこっちに注目しているんですがその、やめてほしいなあ、紳士ぃ。
「や、ちょっと、すんません」
と電話を耳から離した青年が、紳士に向かって、抗弁をはじめた。
「わかってますやん、だから、今、相手に話して後で電話します、て言うところやないですかっ」
紳士は青年の視線をまっすぐに受け止めて、言った。
「だいたい、電話のスイッチを切っておくべきものだろうが」
青年は電話に向かってあわててもごもごといいわけをすると、電話を切った。「前のおっちゃんがうるさいから、かけなおします」などと言わなかった青年を私は少し見直したが、電話を切ってしばらくたって、やっぱり自分はこの紳士に対して腹を立てている、ということに気付いたらしい。青年はふたたび紳士に向かって、こう言った。
「そら、おっちゃんは気分ええわなあ。なんで人のやることにいちいち文句つけなあかんねん」
場の空気が険悪になったのに敏感に反応して、またも人々の視線がこちらを向く。あああ、居心地悪い。私の隣で、喧嘩しないで欲しい。
「君たちのようなものには、言わなければわからんのだろう」
紳士は関西弁にもびくともしない。どうしてこんなに強気なのか。ひょっとしてこの紳士、某古武術の達人だったりするのではないだろうか。
「そんなん、お互いにちょっとずつ我慢したらええことちゃいますん。そないして、自分が正しいんや、みたいなことをわざわざ言うて」
青年は怒りにまかせて、しかし、わりと正論な言葉を述べると、ふん、という顔をしている紳士に向かって、
「ほな、降りますわ、降りてかけなおしますわ。おっちゃんも、長生きしいや」
と、言い捨てると、開いたドアから降りてしまった。
「ああ、ごくろうさん」
と紳士はまったく動じない。青年の顔の怖かったことと言ったらなかった。しかしまあ、こっちを注視しているあのサラリーマンもこの老婦人も、いろいろ意見はあると思うが、この場は公平に見て紳士の勝ちだろうか。
しかし、それで終わりではなかった。電車が動き出してしばらくたって、突然どこからか電子音が鳴りはじめたのである。
「ちゃーららっちゃー、ちゃーららー」
「インディー・ジョーンズのテーマ」である。着信メロディ略して着メロとして、その音楽はどうなのか。この場においてその音楽はどうなのか。このノウ天気な音源を探して、車内のひとびとの視線があちらこちらへとさまよう。しかし気持ちはわからないではない。確かにこの状況下で、電話に出られる人がいたら私も見てみたい。
「ちゃっちゃらら、ちゃっちゃらら、ちゃっちゃららー、らら」
インディーのテーマはそのまま1コーラス鳴り続けると、やっと止まった。かの紳士は、出なきゃそれでいいんだうん、と、軽く目を閉じて瞑想にでもふけっているような表情である。電車の中に、安堵とも、落胆ともつかない空気が満ちた。
…とまあ、そういうわけで、あのときはかかってきた電話にでられなかったのです、おばあちゃん。あ、それから、着メロはもう、別のに変えました。