パードンミー・プリーズ

 テレビドラマやアニメ、映画や小説などでは、演出上必要がある場合を除いてほとんどないことだが、相手が今何をいったのかがわからず、聞き返すという場面は、日常生活では意外なほど頻繁に繰り返されている。ただ、人間というのはうまくできていて、相手に繰り返してもらった部分を忘れてうまく前後を繋ぎあわせる能力があるらしく、意識していないとなかなかそのことに気付きにくいようだ。

「こないだ、銭湯でシモパンと一緒になったんだけど」
「ふむ」
「それが、シモパンもやつかんつがしもかんまへ」
「えっ」
「いや、シモパンのやつのパンツがシマパンだって言ったんだ」
「ややこしい話だなあ」

 というような会話であるが、これを、途中の聞き返した部分を抜かして、

「こないだ、銭湯でシモパンと一緒になったんだけど」
「ふむ」
「シモパンのやつのパンツ、シマパンだったんだ」
「ややこしい話だなあ」

 というような会話だったと記憶してしまうのである。なお、シモパンというあだ名は「パンツ姿の下田」「下田パンツ」の略なのでややこしくても当然である。

 このように世の中は「聞き返し」に満ちているわけだが、もちろん我々が会話をしていて、誰もがアナウンサーのような正確で明瞭な発音ができるわけではないし、高速道路を走る自動車の中のように、周囲のとんでもない雑音のなかであえて会話をしなければならない場合も多いので、これはやむを得ないことではある。一時期、中学生の頃だが、私が相手に聞き返される頻度よりも、相手に繰り返してくれと頼む頻度があまりにも多いので、私は聴覚になにか深刻な欠陥があるのではないかと思ったことがあった。どうもこれは単に、よほど発音がいいかげんな人がいる、ということに過ぎないようである。

 ところで、相手の言っていることが分からないで聞き返したのに、聞きたいところとは別のところを繰り返されてうんざりしたことがないだろうか。

「その燃えないゴミはばっらくらなむねっぷらう」
「え、なんだって」
「だから、燃えないゴミだよ、も・え・な・い・ゴ・ミ」
「いや、そうじゃなくて」

 大抵の相手は、普通に聞き返すと最初の言葉を繰り返すようである。文章の初めの方ではまだこちらが相手に注意していなかった、と思われているとか、あるいは文中で相手が最も言いたかったことは「燃えないゴミ」であって、それは文の最初に来ることが多いというような事情があるのだろうが、聞き取りにくい言葉をしゃべるひとは、大抵文末を濁すようにしてしゃべるから聞き取りにくいのであって、最初の言葉だけを繰り返されても困るのである。そういうわけで、私は、聞き返すときにはちょっとした工夫をするようになった。

「そっちのテーブルで、この書類に記入して、それをがこたべばりくしい」
「え、この書類に、記入して、それをどうするんですって」

 これなら、ちゃんと「それを」以下のところを繰り返してくれる。馬鹿を見るような顔をされて、うんざりしながら全部を繰り返されて、なおかつまたも最後のところが聞き取れない、などということを味わわずに済むのである。

 問題は、私の方の発音が悪くて、相手から聞き返された場合である。全体を繰り返せばいいのだろうが、一部だけを聞き返したいのに全部言うと相手もうんざりするだろうし、かといって「どこが聞き取りにくかったのか」とさらに質問するわけにもいかない。何度も聞き返したあげく「そのことわざを、そもそも相手は知らなかった」という状況のように、表現がなじまなかったということも考えられる。言葉を惜しむわけではないのだが、こういう場合、私は同じ内容を、全く別の言葉で繰り返すことにしている。

「いつも思うんだけど、君の髪の毛、いつもここんとこが寝癖で一房、外にはねているねえ」
「えっ、なんですって」
「あ、いや、いつも可愛いねえ。髪形とか」

 日和見主義だとは思う。

 さて、先日、どうも腹が痛くて下痢がおさまらなかったので、病院に行った。そもそも医者というのはこちらが病気で体調が悪いときに初めて出会う人が多いからか、第一印象がいい人というのはあまりいないものではあるが、そこの医者の先生が、診療時間中だというのに一時間後にならないと帰らないとかで、出直してくれと言われたり、出直してみると実は一時間半後だったり、なおかつ私より後に来た人がさきに診療されているようだったりと、かなり私と不幸な出会い方をした人なのだが、この人がやはり語尾を濁す、途中でなにを言っているんだかわからなくなる人だった。
「うがいをきていを、なもおおぼるばはし」
「えっ、なんでしょうか」
「うがい、うがいですよ、ウガイ」
「ああ、はい」
 私は、なんか辛くて疲れていて気力がなかったので、あまりちゃんと聞き返す気分になれなかった。まあ、うがいをしなさい、というような意味だろう、と想像できないではなかったからだ。
「…あの窓ガラスを見ればうべのばもぶきもるねの」
「はあ」
 この人、他人から「あなたの言葉は聞き取りづらい」なんて言われたことがないのかなあ、と私は窓ガラスを見ながら思っていた。
「脱水症状になると血液がしかさましになね、のるおまふ」
「……」
 医者の使っている机は、手紙や書類が山のようになって、使用面積が半分くらいになっていた。残り半分にも、ばらばらと医療器具が無造作に散らばっている。片づけたほうがいいんじゃないのかなあ。だらしないなあ。
「コレラの症状はちょうどまめぼろるぶふくみていまう」
「えっ、なんですか」
 聞き返す私。
「コレラ、コレラですよ、伝染病の、コレラ」
 そうか、コレラか。それはいかんなあ。

 えっ。


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