こんな歴史ではなく

 「歴史に『もしも』はない」という言葉をよく目にする。これはつまり、歴史はもう起こってしまったことの学問であって今さら変化はしないのだとか、あるいは「もしあの時こうだったら、その後の歴史はこうなっていたに違いない」と考えることはまったくの時間の無駄であるのだとか、まあそういう主張なのだろうと思うのだが、ちょくちょく見かける割には、おそらく孫引きに孫引きが重ねられているのだろう、いったい誰のいつごろの言葉なのかについて言及されているのを見たことがない。どういう文脈で使われた言葉なのだろうか。なぜか「歴史に『もしも』はないが、このもしもを考えてみることは無駄ではあるまい」などと逆接で引用されることが多い妙な格言でもある。

 そうはいっても、歴史書や歴史を題材とした小説をひも解いていると、その話の流れ(つまり歴史)に納得できないことというのはよくある。歴史というものはそもそも、華々しい大成功よりも、いくつかの大失敗と、やや数が多い小失敗と、無数のまあまあの決断でできているわけで、当時の人はどうしてまあよりにもよってこういうことをしたのだろうと疑問に思うことは少なくない。もし自分がその時代の支配者、せめて一軍の将や一国の主だったら、と思うわけだが、まあ冷静になって考えてみて、たとえば名を上げやすい戦国時代に自分が生まれていたとしても、自分がなにか歴史を動かすような人材になっていたとは、ちょっと思えない。

 たとえば私の祖先は、四代より前にさかのぼると「この辺りに住んでいたらしい」という以外なにひとつ記録がなくなるので全く判然としないが、たぶんはるか上代からいち農民としてやってきたに違いなく、私がその祖先のかわりに動乱期に生まれていたとしても、なにか大きなことをしていたかというと、やはり何事もせずに、生まれ、育ち、畑を耕しつつ日々を暮らし、何人かの子を設けて死んでいったに違いない。このサイクルを打破し、たとえば一郡の長になるような華やかなまねを、私ができるくらいなら、祖先の誰かがやってないはずはないのである。

 しかし、夢見る自由は誰にでもある。私にもある。だから、ここはお許しを願ってちょっとズルをすることにしよう。あまり健康的な考え方ではなくて、ちょうど今の自分の経験を保ったまま小学生の一年生くらいからやり直したいと思うような虫のいい願いだが、後世の知識を持ったまま戦国時代のはじめのほうに、まあせめて小国の領主の惣領といった位置に生まれて活動を開始できるというような、それくらいのハンデを与えてもらえば、私でも相当いいところまで出世が可能なのではないだろうか。

 もちろん、歴史の中で役割を果たすというのは大変なことで、なまじっかな能力では追いつかないというところはあるかと思う。しかし、私には西暦二千年の無数の本による膨大な知識が味方についている。核兵器や毒ガスの製造とまでは行かなくても、いくつかの有用な科学知識や、兵隊の訓練方法といった軍事知識だけでなく、この先歴史がどのように展開するかということも、ありがたや、知っているのである。後出しジャンケンし放題なのだ。それらを総動員すれば、あるいは、信長や秀吉のかわりに天下を統一することだって、夢物語とは言えないのではないだろうか。

 数十年前ならこういう考えはただの妄想以外のなにものでもなかった。しかし、いかに恵まれていることか忘れがちだが、現在は高度なコンピューターが誰にでも手に入る時代である。そしてそこには、我々のこうした欲求に応えてくれるゲームが「手を伸ばせばそこに」という状態で存在している。この分野には昔からいくつも有名なシミュレーションゲームが発売されていて、思うさま自分の能力を試すことができるのである。まあ、ゲームはゲームなのではあるが、考えてみれば、これだけのことでも誰もが自分の家で遊べる幸運を享受しているのは、骨を放り上げていた時代から数百代の私の家系の中でも、私と、父と、ほんのここ二代だけのことなのである。この特権を生かさない手はない。

 とまあ、そういうわけでここに、とある歴史シミュレーションゲームがある。中古を千円ちょっとで買いたたいてきたので「信長の野望シリーズ」のような有名なものではないし、古いゲーム専用機用のソフトウェアなのであるが、これで今読んでいる小説で気に入らなかった歴史の流れを、なんとかしてやろうではないかというわけなのである。
 まず初期設定だ。やっぱり私の祖先が生きていた(と思う)「播磨の国」ではじめるのがいいだろう。ここは史実によれば、やがて中原を征した信長の尖兵である秀吉軍に飲み込まれてしまう土地ではあるが、そこに私という存在が根を張り、毛利や本願寺勢力などと手を結んで信長の侵攻をはねのけ続ければ、どういうことになるのか大変興味がある。こうして播磨一国を勢力内におく守護大名「大西氏」が誕生した。

 大西氏は戦った。周囲の国よりよほど温情主義で接しているにもかかわらず恩知らずにも発生する百姓一揆を、無類の火力装備を行った正規軍を用いてたたきつぶしたり、実はまったく役に立たないことがあとでわかる水軍を整えたり、周囲の国と屈辱的な連合を結ばされたり、山陽道方面は手ごわいので山陰地方に手を出しているうちに、瞬く間に数年が過ぎる。そんなあるとき、ふと気になって広域情報を呼び出してみて、私は狐につままれた。

「…織田氏が、いない」
 尾張の国には、ただ今川氏の旗が乱立していた。どうも、桶狭間の合戦で、信長軍はあっさり今川氏に破れたらしい。確かにこの戦いは織田氏が絶対的な兵力の差をひっくり返して今川義元軍を破った戦いとして有名なのだが、まさか歴史通りの奇襲は行われなかったのだろうか。もちろん、このあたりの勝敗に私は何も関与していない。はっきりいって、大西氏の勢力はとてもそんな遠方に手を出せる段階ではないのだ。勝手に戦をして、勝手に負けたらしい。
 確かに、歴史はなるべくして今の姿になったわけではない。しかし、たとえば信長が生き残るのが、彼の能力と綿密な洞察や行動力などの結果ではなく、本当にただの偶然の結果だとしても、ゲームの中ではちゃんとその偶然が起こって、歴史書の通りの展開になっていて欲しいのである。ゲームプレイヤーである私がそこに手を触れるまでは。

 もったいないので、その後も何度かそのゲームをやりなおしてみたことはみたのだが、恐るべきことに、自分が織田氏ではじめないかぎり、このゲームでは大抵の場合今川氏に織田氏が破れてしまうらしい。遠方からでは戦の模様はよくわからないが、ただただ数の論理で押しつぶされているようである。私は、すっかりやる気をなくしてバックアップデータを削除した。その後、私は一度もこのゲームで遊んでいない。信長も、秀吉も、家康もいない歴史を、さらに変えようと思って、大西氏はがんばってきたわけじゃない。こんな「もしも」は、あんまりだ。


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