肉欲の果てに

 扇情的なタイトルで申し訳ない。なんのことはない、今回は「肉食欲」、肉を食べたい欲というお話なのである。

 言ってしまえば「焼いた厚切り牛肉」以上のなにものでもないのだが、「ステーキ」なる食べ物に多少なりともこだわりを持っている人は多いのではと思う。現実がどうであるかは別にして、かつては「スキヤキ」がその座を占めていた、豪華な食事の代名詞として、多数あるこうした料理の中で、ひときわ「高価なもの」という共通認識があるのではないだろうか。そして、特に七〇年代から八〇年代初めを少年として過ごした人々の間では、そのルーツは、松本零士氏の漫画「銀河鉄道999」である、と言っても、さほど言い過ぎではない気がする。

 私もまた、高級料理としてのステーキの存在を「銀河鉄道999」で刷り込まれた年代である。なにしろ、この漫画の中で、主人公の星野鉄郎は無闇とステーキばかり食べている。特に「999」の食堂車では、彼がステーキ以外の料理を食べていたことがあったかどうか、ほとんど思い出せないほどである。彼が持つ銀河鉄道のパスがあれば999での食事は全部タダなので、育ちが貧しい鉄郎は、ついつい一番いいものを頼んでしまう、ということに違いない。松本零士氏の描くステーキがまた実に美味そうであって、読んでいた私はうらやましくてならなかった。

 私の家は、客観的に見てそんなに貧しくはなかったと思うのだが、ことステーキに関して言うと、かなり成長するまで一度も食べたことがなかった。なぜなのだろう。私の生家は、田舎とはいえ、牛肉にかくべつ縁のない土地ではないのである。むしろ神戸牛の産地の近くであると考えれば、牛肉食のさかんな土地であるとさえ言えるかもしれない。現に正月や盆のご馳走といえば、スキヤキや焼き肉だった。まあ、これは、結局のところ、そういう食べ方をする文化がなかった、というだけのことなのだろう。私はなかば別世界の食べ物としてステーキを認識し、だからしてべつだんそのことに不満を覚えるでなく、ステーキに対する素直な憧れを抱きつつ、少年時代を過ごしていたのだった。

 私が現実に、はじめてステーキを食べたのは、ある家族での自動車旅行の帰り、渋滞にへとへとになってたどり着いたあるドライブインレストランだった。中学生の私と、まだ小学生だった弟たちは、父母から「ここにあるメニューの中から、なんでも好きなものを食べてもよい」というありがたいお言葉をもらって、欲望のおもむくまま食事を注文することになったのだ(さらに付け加えて言うならば、こういうことは珍しいことだった)。私の目が、メニューの一番目立つところに書いてあった「ステーキ」に引きつけられたのは、むしろ当然といえるかもしれない。

 今から思うとおかしくてしかたがないのだが、意外なことに「前から一度食べてみたいと思っていたのだけれど」という私の要求を、父母は笑って許してくれたし、ウェイターにも驚かれることもなくちゃんと注文は通った。これを書くとあなたは私の家がよほど田舎だと思うのかもしれないが、中学生の私はそもそも、洋食自体を食べ慣れていないのである。ナイフは右手でフォークは左手で持つとか、小さく畳まれた柔らかい、ティッシュペーパーのようなあれは食べるときに膝にひくものだとか、本から得た常識を現実に実行するのは、ちょっと変な感じだった。もっとおかしかったのは、焼き方に「ウェルダン」「ミディアム」「レア」なる区別があって食べる前に質問される、というのが本当だったことである。さして高級なレストランではなかったのだが、ウェイターがちゃんと聞いてくれたのだ。私にとってステーキを実感するうえで、かけがえのないものだったと言えるだろう。

 余談になるが、この焼き方というのも妙なものである。額を押してみたくらいの固さとか、耳たぶくらいの固さとかいろいろな言い回しがあるが、どうにも実感としてよくわからない。考えてみれば、この表現は料理をする側の都合である。焼き上がりつつある肉を箸で押してみた感じと、自分の顔を触ってみた感じが同じになれば完成、とすればいいからである。しかし、食べる側にとってみると、好みの固さをそれで判断できるわけではない。額だの耳たぶだのを、我々は触ったことはあるが、食べたことはないからだ。つまりここは、誰もが食べたことがある他の食べ物の固さにたとえるべきなのだ。「プリン」なり「ガム」なり「こんにゃくゼリー」なり、表現のしかたはあると思う。まあ、お菓子にたとえられてしまうとさっぱり食欲がわかない、という効果はちょっとあるかもしれないが。

 さあ、そうして初めて食べたステーキがどんな味だったか。一般に、実際に食べるよりも早く本や漫画でその食べ物についての知識を得ることは、あまり幸福なことではない。実際に食べてみると、書いてあったほどはおいしくない、という結論に至ることが多いからだ。そもそも、味を言葉で伝えるというのはたいへん難しいことである。ある料理漫画で、味を表現する言葉として「まったり」なる、落ち着いて考えるともうひとつ意味がわからない表現が使われて流行したことがあったが、そもそも日本語には、味を細かく表現する語彙が初めからないのではないかと思う。たとえば色の名前に見られるような、複雑微妙な言葉のあやは存在しないのである(といっても、世界中のどこかの言語で味を細かく表現できるものがあるのかどうか、私は知らない)。もしもあなたが、文章を読んで、その食べ物を食べたいと思っても、それは文章に惚れているのであって、文章によって表現された味に惚れているのではない。ちょうど、写真も見たことがない文通相手に熱をあげるようなものかもしれない。

 そして、そのステーキもまた、大筋ではそういう存在だった。まずくはなかった。固くてかみ切れないということはなかったし、ステーキソースはいい味を出していた。だが、それが私の幻想のなかの味と同じだったかというと、これは残念ながら比べるも恥ずかしいことながら、惨めなものと言わざるを得なかった。親の手前、絶対にそんなことは言えなかったし、言わなかったのだが、私は「トンカツ定食」の方にしておけばよかったかと、ひそかに後悔していたのである。

 そしてもう一つ、どうしても気になるところがあったとすれば、かちゃかちゃとステーキを食べている私の向かいの席で、弟がぱくぱくと和食を食べていたことだろう。私は漠とした不安さえ感じていた。なんだってこいつは、何でも好きなものを食べていいという場面で、よりにもよって「新香巻き」なのであろうか。それは、私に対するなんらかの不満の表明なのだろうか。せめて「鉄火巻き」にならなかったのだろうか。そのあたりを疑問に思い、レストランを後にした私たちが、車中で弟に聞いたところによれば「ステーキよりも鉄火巻きよりも、新香巻きが好きなのだ」とのことであった。ステーキに何の憧憬も持っていない人というのは、やはりいるもののようである。淡泊なのだろう。


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