不確かな期待

 やあ、困った。困ったのだ。どうしよう。迷っている時間はないが、決断もできないさっぱりできない。参った。参ったのだ。どうしよう。参っていると時間が過ぎて時間が過ぎるとますます困ったことになる。いかん、こうしている間にも時間が過ぎてゆく。やっぱり弱った。きっぱり弱った。優柔不断とはこのことか。略してユウフダ。ああいかん、略語を作っている場合じゃない。

 …状況を整理してみよう。

 ここはテレビ局のスタジオ、今はクイズ番組の収録中だ。解答者として出場権を得た私は、信じられないほどの幸運に助けられつつも自慢の雑学を発揮し首尾よく勝ち進んで、既に百万円を獲得していた。そこまでは良かった。そこまでは。そうしたら、司会者が言ったのだ。「二百万に挑戦しますか」と。

 がっはっは、このクイズ王に何を聞いておるのだ司会者君。君のためを思って言うんだが、これ以上やって、傷口を広げるのもどうかと思うがね。君にも生活あるんだろうに。え、わかったわかった。負けるときは潔く、これも美学だともわかったわかった。ま、問題言ってみたまえ。一刀両断だがね。略してイチリョウだがね。さあ、ニヒャクマン、カモン。

 などなどと、ここまでがあまりに順調だったのでヘンな万能感に囚われてつい「ちょ、うせんしますっ」と言ってしまったのがまずかった。曖昧な笑みでうなずいた司会者が、こんな問題を読み上げたのだ。
「次のロシア文学の主人公のうち、書かれた年代が最も古い作品に登場する人物はどれか」
 わははは。は。あ。わからない。

 自慢じゃないが、人間顔じゃないが、全く見当もつかない。一応、問題は四者択一になっているのだが、選択肢はどれもなんとかノフだかなんとかビッチだか、一面識もない人間ばっかりだ。これっぽっちも確信がない。選択肢一つも削れない。だからして困っているのである。

 わからないんだから何を答えたっていいようなものだが、選べる選択肢は、実は四つではなく、もう一つある。ノフだかビッチだかを選んで答えるほか、親切にもこのクイズ番組は「ギブアップ」という選択肢が与えられている。間違えば百万円はパア、ゼロ。しかし、答えずにここでやめればともかくも半分の五十万円は持って帰ることができる(二百万円にチャレンジする問題を聞いてしまった今、百万円持って帰るという選択はできない)。どうすべきだろう。ああどうするべきだろうどうしよう。

 …落ち着こう。こういう時は、期待値を計算してみるとよい。期待値というのは(ここでは)、ある確率でもって何が起きて、それぞれいくらの利得があるかが分かっているとき、確率と利得を掛けて足しあわせたものだ。ええと、たとえばサイコロを一個振って出た目の期待値は3.5になる。長い間サイコロを振り続けたら、目の平均が3.5になるということである。この今の状態の期待値はどうなるか。

 まずここで、問題に答えるのをあきらめて、これでやめると宣言した場合。こっちは簡単、必ず五〇万円もらえるので、期待値も五〇万円だ。一方、イチかバチかアテズッポウで問題に答えてみた場合。二五パーセントの確率で二百万円がもらえ、残り七五パーセントの確率で賞金が〇になるだろう。ああ、細い糸だ。従って、チャレンジした場合の期待値も五〇万円(二百万円×1/4+ゼロ×3/4)となる。つまり、期待値だけを見れば、どちらも同じ五〇万円だ。もし「問題を二者択一にする」というヒント権をまだ持っていてここで使ったら、挑戦のほうの期待値は百万円まで上がったろうに。

 宝くじでも競馬でもトトでもパチンコでも、世の中にあるゲームの大抵は期待値がマイナスの数値になっている。つまり、賞金総額はゲームへの参加代金の合計より、程度の差はあれ少ない。長い間やっていると例外なく損をするということになるが、これらのゲームでは時に巨額の得をするということが、長期的な少しずつの出費よりも目立つので、人はとにかくも、いわば騙されてこれらのゲームをやっている。一方、仲間内で賭け麻雀をやると(法律上やってはいけないのだが、まあ、ミカンかなにか賭けたとして)、勝った人がもらうミカンの個数と負けた人が払う貢ぎ物とはちょうど釣りあっているので、期待値はゼロということになる。こっちのほうがワリはいい。

 では、期待値がプラスのゲームがあれば、人はそれに乗るべきだろうか。一般的にはそうである。私にしても、べつにこのクイズに出場するためにお金を払ったわけではないので、これはめずらしい期待値プラスのゲームだ。最悪でも、何ももらえず、家に帰るだけのことだ。

 そういえば、思い出したのだが、期待値に関してこんな話がある。たとえば、最初に封筒が二つあって、どっちかの封筒にはもう一方の封筒の二倍の金額の小切手が入っているとする(しかし、両者の額はわからない)。一方を選んで開けると「百万円」とあった。このままそれをもらうこともできるし、もう一方の封筒を選び直すこともできる。さあ、どうするべきだろう。

 自分が最初に額の多いほうを選んだ確率と少ないほうを選んだ確率は同じなので、相手の封筒に「二百万円」が入っている可能性は1/2と考えることができる。「五〇万円」が残り1/2だ。従って期待値は一二五万円。わずかながら(と言うとあまりにも二五万円に失礼だが)これは百万円を捨ててチャレンジするかいがある賭けだ。勝ち目は大いにある。

 しかしここで、ふと疑問に思うわけだ。最初に選んだ封筒の中にある小切手の額が、百万円でなくても、いくらであっても、この議論は成り立ってしまう。二倍か半分か五分五分。期待値は封筒の中の額の1.25倍。つまり、最初に選んだ封筒を開けないで、もう一方をとったほうがいいのだ。しかし、そんな奇怪な話があるだろうか。開けないで他方を取るなら、最初からそっちを選んでおいたほうがよかったのだろうか。新しい封筒について同じ議論が成り立ちはしないか。期待値は本当に賭けにでるかどうかの指針になるのか。

 と、ここまで考えてわれにかえった私は、司会者が怖い顔をしてこっちを見ていることに気付いた。ああっ、こっちの事態とはあまり関係のないことを考えてしまった。本当に、どうするべきだろう。アタックすべきか、あきらめるか。最終回答には、まだたどり着けない。


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