勝利に貢献

「コンフェデレーションズカップ」は略して「コンカツ」。
…と、どこかで書こうと思っていたら、もう終わってしまった。諸行無常を感じている。

 コンカツばかりではないが、サッカーの結果を報じるニュースでは、実にしばしば「ファンの騒ぎよう」といった文脈で、どこかの飲み屋で盛り上がっているファン達の姿が報じられる。詳しくは知らないまま書いてしまうが、たぶんその店には大きなテレビがあって試合の模様を放映しており、それを知っているファン達が集まっては騒いでいる、そういう居酒屋なのだと思う。趣味の合う人々と一緒に見るというのは楽しいもので、選手に声援を送ったり、応援歌を歌ったりして楽しんでいる様子が報道されている。

 そういう楽しみ方に水を差すつもりはまったくないのだが、この「居酒屋で応援」の人々を見ていると、ある疑問が浮かんで胸から離れない。すなわち、その声援は決して選手には届かないのだが、それでいいのだろうか、ということである。

 もちろん、実際に競技場に行かないかぎり、自分の声援が選手を後押ししている、という意味で「選手に届く」というわけにはいかない。競技の現場において大きな声援があるということが、選手が能力を発揮するための助けになっているのかどうか、助けになるとしてそれがどの程度なのか、という問題自体も、どうもちゃんとした形で証明されているとは思えないのだが、少なくとも遠く離れた酒場の一室から「念」を送ったところで、選手には何の助けにもならないというのは確かである。しかし、ここで言いたいのはそういうことでは、ない。自分が応援する気持ちが、具体的な形として選手に届いていないのではないか、ということなのである。

 選手が見事なプレーを決めて、自分がそれにある種の感動を覚えたとする。次回も競技場に見に来よう、チームのグッズを買おう、と考えたとすれば、その想いは、削り削られた先ではあるが、ちゃんと選手に届く。そうしてサッカーに使ったお金は選手の生活を豊かにし、あるいは競技場を整備し、次代の選手を育てるために使われ、さらなる見事なプレーを見るチャンスを観客である自分に返してくれる(かもしれない)。ひるがえって、酒場でサッカーを見ていたとしたらどうか。ファンが払うお金は酒や料理に対してである。もう一杯生ビールを注文するためにその「気もち」を使ってしまったとして、そんなものは経営者の懐を潤すだけであり、ああなんということだろう。遥かなる決勝のピッチには届かないのだ。

 しかし、もう一歩踏み込んで考えてみると、したり顔でそんなことを書いている私はもっとひどい。そういう居酒屋にいればそれでも他のファンを開拓し、また仲間同士で次はスタジアムに見に行こう、ということになる可能性が高いわけだが、私について言えば、競技場に行ったことが一度もなく、これといった関連商品も買わず、テレビを見ているといっても「視聴率を計測する機械」が(どんなものかは知らないが)うちのテレビにはついていないわけなので、見ても見なくても世界には何の痕跡も残さない。恩を何も返していないのだ。それなのにこんなに楽しんでしまって、もっと申し訳なく思わねばならないところである。

 本当は、こんな私でも、サッカー中継のコマーシャルをしっかり見て、スポンサーになっている会社の商品を買えばそれでよいと思うのだが、といって自動車なんてそうそう買えるものではないし、マイラインはもう契約してしまったのでいくら慎吾ママの言うことでもNTT東日本にするわけにはいかない。やっぱり私の声援は届いていない気がするのである。

 広告といえば、ウェブ上で個人が作ったページを見ていると、時折、さまざまな形での広告に出会う。無料でサーバスペースやマシンパワーを提供する代わりに、訪問者に広告を見てもらおう、ということである。これはもう、楽しませてもらっているのだから当然であると、ダウンロードの手間をかけ、アニメーションをボーッと見たりもし、ときどきはクリックして先がどうなっているのか確かめたりもしていたのだが、最近、ブラウザソフトを変えたら「広告フィルター機能」なるものがついていた。

 この広告フィルタ、画像の名前(たとえば「ad.gif」とか)であるとか、タテヨコの大きさといった条件で広告かどうか判断をし、そういう画像はダウンロードしない、というだけの単純なものなのだが、使いはじめてみるとこれが快適である。たまたま時期を同じくして、専用線だった環境がISDNに低下してしまったこともあり、無意味な通信時間が発生しないことが、ことのほか軽快に感じられるのだ。ISDNの64kbpsという速度は、文章のダウンロードには十分すぎるが、ちょっと大きな画像になると途端にどうしようもなく辛くなるスピードなのである。

 しかしこれはいいことなのかどうか。単に作者の匿名性を保つためや、小遣いをケチったなどの理由で無料スペースに置かれている個人のページであれば、出てくる広告をカットすることには、それなりの正当性が認められてもいいかもしれない。しかし、経済的に苦しい中、やむを得ず無料スペースを使い、それでも訪問者を楽しませよう、有益な情報を与えようという方のページの広告をカットすることはよいことではない。長い目で見ると無料サービスを立ち行かなくさせ、その公開の道を閉ざしてしまうことにほかならないからだ。

 同様に、広告によって運営されている商用のニュースサイトなどでも、広告を遮断することにはためらいを感じる。ページの向こうにはそれで生活している人がいるのに、簡単に営業を妨害してもよいものだろうか。広告フィルタ機能がそこまで賢くないので、現状全部の広告をカットする仕組みになっているのだが、快適さとの板挟みになって、居間でサッカーをテレビ観戦して、日本サッカー界に何の貢献もしないまま楽しむだけ楽しんでいるような、そんな罪悪感にさいなまれている。

 ところで、阪神タイガースに関して言うと、私はだいたい一年に一度ほどの割合でコンスタントに球場を訪れて、いろいろとグッズも買っているので、その点では貢献度はバッチリである気がする。それよりも、私に対する「阪神タイガースの貢献度」がむしろ低いように思うのだが、もう少し頑張るわけにはいかないか。毎日「念」も送っているのだが。


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