ごふごふ。え、続きです。ええ、顔の半分が動かんようになって病院に行ったという話をしとります。それで、一月五日になって、土曜日なんですが、行った病院というのが、近所にある、例の、と言うたらいけませんが、いろんな科がある病院です。実は、行く前は少うし迷っとったわけです。顔が動かんというのはもしかして、内科ではあかんのやないか、神経科とか脳外科とかそういう方面やないのか。この病院、大きさとしては中の小くらい。整形外科やら眼科やらがあるわりには「神経科」という文字はないんです。でも、何からなにまで揃うたような病院が都合よう近くにあるわけやなし、第一まだ正月五日やし、あかんかったらあかんで大きな病院に紹介状くらいは書いてもらえるやろと、まあそんな軽い感じで向うたもんです。
どうちうことはない、診察はぱっぱっと終わりました。まず病名で言うとまあ大方は「一過性顔面神経麻痺」あるいは「ベル麻痺」というもんであるということやそうです。どうでもええ話なんですが、こういうときに「ベル麻痺て、人名なんやろけど『ニクラーゼ麻痺』とか『マクストフ・バウァーズ症候群』みたいなおどろおどろしい名前やのうて良かったわあ」などと思ってしまうのは、常日頃から休まずたゆまずこういうタワゴトを書いとるせいやと思いますな。まあなにしろ気は楽になるんで、役に立つこともあるもんです。
それで医者さんが説明して言わはることには、要するに、神経路の問題であると。つまり、こう頭蓋骨の中に脳みそがあって、私という存在はそこにおります。そこに四方八方から感覚が伝わってくる「セン」が入っていって、また筋肉を動かす「セン」が出ていっとると。で、今回はその一本がなんらかの原因で炎症を起こしていて、信号が伝わらんようになっておるもんやと、そう言われました。
は、なるほど、てなものです。前回で私「人間はパソコンに比べて並列性が特徴なのである」てなことを申しましたが、要するに、ここに限ってどうも二重化はされてないらしい。顔を動かすセンがプチンと切れると、いや切れてはおらんのでしょうが、途中でハレるか何かでメゲてまうと信号が伝わらんようになって、ほらこないして、顔が動かんようになる。まことに人間も機械やなと、そういう体験やったというわけです。原因は一つには絞れるわけやないが、主には寒いところに二、三時間いた場合にこないなることがあるということで、いやこれもその通り。原因があって結果がある。医学というのは、あなた、素晴らしいもんです。
いずれ一過性ちうことで、点滴と投薬で、どんなに長くても一ヶ月、たぶん二週間で治るということで、食事もとくに注意すべきことはない(こんなやさしい言葉は久しぶりにかけてもろたもんです)。他の原因だって考えられんことはないが、それはまあ、二週間経ったらまた考えましょと、そういうことになりました。その一、二割は可能性としてあるという「他の原因」というのが気にならん言うたら嘘になりますが、まあ、そうなったら二週間くらいの遅れはどうちうことはないみたいなことをおっしゃっておりました。そういうわけで、点滴を打ちいの、薬を飲みいのしているうちに、正月が明けえの、仕事がはじまりいので、私も人様並に、七日に社会復帰したわけです。
「いずれ治る」という楽観的な視点に立っているから言えるんや、と言われてまうかもわからんのですが、この苦境から一歩引いて眺めてみましたらば、今回の一件はまさに、SF的な経験、というべきものやと思うんです。SFにはいろんな形式があるわけですが、たとえばそれは、ある非現実を一つ仮定した条件のもとで、いかにリアリティを持たせた世界を作って、その状況下での事件を描き出せるか、というもんやと。つまり「もし…やったらどないや」というところに根ざしていると言えます。たとえば「ドラえもん」はだいたいそんな話で「もし日常生活にこれこれこういう未来の道具があったら、どない面白い、あるいは困ったことになるやろ」というのが基本的な話の枠組みなんですな。で、今の私の状況はこれに非常に近い。体の中で、ある一本の神経が焼けてしまったらどうなんか。顔の右半分の筋肉がまったく動かなくなると、どういうことになるんか。
あんまりくどくど言うてもしょうがないので、私が得た印象の中から一つだけ抜き出しますというと、前回もちょっとお話ししましたが、目の周りでした。幸い、ほかが完全に麻痺しても、まぶたの筋肉はある程度自由になるもんのようです。並列化というか、別系統なんでしょう。しかし、目をかっと開けたり、またしっかりつぶることはできん。閉じたつもりでおるんですが、完全には閉じてない、たとえばこう、ぎゅっと両目をつぶったつもりで、目を下に向けると、あにはからんや右目から外が見える。そんなんですから、普段からなんやニラんだような顔つきになるのはともかくとして、右目からの視界が良うないし、車の運転やとか仕事やとかで一点をじいと見ると、目が乾いてならん。それから、こうなってみると意外でもなんでもないんですが、頭を洗ったり顔を洗ったりすると目が痛い。石鹸が目に入るわけです。そう言えば、ヒゲ剃りもうまくはいかんのです。顔の表情を変えながら剃ってるもんなんやと、改めて気付いたりしとりました。
それでも人間の体というのは、まあうまいことできとるもんのようです。投薬しながら一週間、二週間、なかなか治ってこんかったんですが、この「目の乾き」に関して言うたら、顔の筋肉のほうはずっと麻痺したままやというのに、どんどん楽になってゆく。よく観察してみると、仕事中、とにかく涙が出るようになったんです。まばたきの深さでは解決でけんので、目ぇの奴、涙の量でなんとかすることにしたような、そんなんやと思います。前回汚い話をさせてもらいました、食事の時の米粒問題も、オートマティックというわけにはいかんのですが、なんだか慣れて行ってます。頬と歯茎の間に入ってしまった米粒を取るには、お姉さん、頬を外から指で押せばええんですわ。
さて、この後本当なら「回復しました」ということをお話せんといかんはずなんですが、実は今日現在、まだ完治はしとりません。治ってない。眉は少し動くようになったんですが、口の周りがまだ思わしくない。医者さんはあと二週間そこそこかかるかもしれん、てなことをおっしゃっておりましたが、他の可能性として、脳になにか悪ういデキモンができとる可能性もあると、この前の土曜日になりますが、CT撮影なんちう経験もさしてもらいました。最後にこのことをお話して、このまとまらん話をおきたいと思います。
CTというのは、コンピュータライズド・トモグラフィの略です。トモとはなんや日本語っぽい、と昔から思ておるんですが、あまり深くは追求せんことにして、要するに体の断面図を作る機械です。むかし「イラストロジック」とかあるいは「ののぐらむ」という、数字が書いてあって、その数字だけ升を黒く塗りつぶすと絵が浮かぶという、そういうパズルがありましたが、あれをコンピューターがやると思えばいい。頭のある方角からエックス線を当てて撮影して、別の方向からまた撮影して、というデータをいくつもむにゃむにゃと組み合わせると、断面図がでけるという寸法です。患者として虚心坦懐に現象的に言うと、ベッドに寝転んでドーナツ型のキカイに頭を入れてまわりでぐるぐる回る赤いもんを見とったら、脳みその断面を撮った写真がもらえる、ちうもんになります。そう、この病院、大きくもないのにこんなキカイを持ってはるんです。意外にポピュラーで、高くはない道具なんかもしれません。
正直なことを申し上げて、私は恐れておりました。もしかして、脳に深刻なダメージがあって、それから来ている麻痺なんではありますまいかと。BSE(狂牛病)なんてことは言わんとしても、脳にオデキができて摘出せなならんということになったら、まあ生きてはいられんかもしれん。少なくとも、人生設計は大幅な変更を余儀なくされるというやつです。その可能性は低いといっても「一割二割」ちう確率でそっちに行くような、こんな大きい選択肢には出会ったことがないし、現実に顔も動かん。それを思うと、実は「まあそれでもええか」なんちうことを思わんでもなかったんですが、残された妻が不憫でならん。格好をつけて言うわけやないんですが、ホンマの話、そういう心境でした。
で、結果はどないやったかというと、おおきに神さん。おおきに仏さん。おおきに宇宙の法則。おおきにその他もろもろ、誰かに信仰されているどなたはんか。「ああ、わしにも脳みそがちゃんとあったわい」というもんでありました。灰色のキャベツみたいなあれが、私のサレコウベの中に二つ仲良く収まっておりました。特に異常はない、心配いらん、ということになります。
こんな話に長う付き合わせてしもて、ホンマにすいません。そんなわけで、年が明けていきなりやったんですが、まだあとしばらく、ここにこんなアホウなことを書いておられるような雲行きやと、こうなりました。人間は機械でありまた機械ではなくて、特に私の体はそんな「アタリ」とは言えないハードウェアなもんですから、並列化むなしく、故障するときには故障するような感じです。とはいえ、いつまで続くかもわからん、こんなページではありますけど、これからもどうぞよろしくお願いいたしたい、とそう思ております。はい、今年もお互い、笑って生きてゆけたらよろいしな。はい、ほな今日はこれで。ほなまた。はい。