名付けの秘義

 特に小学校から中学校くらいのレベルにおいて、科学を学ぶ過程は、新語との戦いにほかならない。最大公約数、作用反作用の法則、BTB溶液、巻積雲、導管と師管、南中高度。仮に科学の本質が知識の蓄積にではなく、考え方、それそのものにあるとしても、結局のところ他人によって体系付けられた基本的な知識が身につかなければそれより先の進歩を担う人間になることはできないし、自分勝手に術語をでっち上げて他人と言葉が通じなくなれば、真の天才でもないかぎり、孤独なまま、いっさいの研究は実を結ばないということになるのだ。巨人の肩に乗らずに、遠くは見えない。よほどの巨人本人でないかぎりは。

 しかし、それでもやっぱりリストの棒暗記には学問としての魅力がないのは確かであり、そのため小中学生あたりの理科があまり好きではなかったという人は、実は多いのではないかと思う。岩の分類とその性質のようなものならばそれだけの事だが、一般にはそれら「新語」たちは面倒だからといっておろそかにはできない代物である。たとえば「虚数」「加速度」「偏微分」といった、新しい概念についた名前を覚えそこねると、これはもう踏み外す階段の一段としては大きすぎる一歩であって、あとになってどんどん辛くなる。

 こういう話は、理系分野に限ったことではなく、むしろ文系分野において数多くある悩みなのかもしれないのだが、私の場合は、小中学校からその上の高校、大学と教育を受けさせてもらって、理系の学部に進んだ者だから、いきおい話としては理系の学問に関しての命名法という話になってしまう。そして、少なくとも自分の手の届くこうした分野の事情については、なにか新しいモノゴトが出てきたときの、名前のつけかたということで、二通りの「やりくち」があるのではないかと思っている。

 たとえば。数学なり、物理学なりを研究していて、新しい何かを発見したとする。何でもよいが「遠くの星雲からの光のスペクトルの中の輝線の位置が低周波数側にずれている現象」というのを見つけたとしよう。では、これを何と呼ぶか。はじめは「〜という現象」とそのまま扱って、特に名前を付ける必要もないと思うかもしれないが、他人とこのことについて議論をし、論文になったり会議で発表したりすると、そうもいかなくなって来るだろう。長ったらしくて話が先に進まないので、なんとか短く格好いい名前をつけなければならない。こういうときに、どういう方法でもって名前を付けてゆけばいいだろうか。

 まず、既存の簡単な単語、あるいはその組み合わせでもって、この概念を表すことにしてしまう、そういう方法がある。たとえば「レッド・シフト」というのはどうだろう。英語で、赤いほうに動くんだ、ということで、難しい言葉ではないが、いったんそういうことだと宣言してしまえば、これで十分、なんのことだか意味が通じる。一方で、なにか一つ、まったく新しい語をでっち上げてしまうという道もある。こちらの例は、ギリシャ語かなにかから言葉を借りてきたり、発見者の名前なんかをつける習慣がそれにあたるかもしれない。実際「遠くの星ほどレッドシフトが大きい」という現象は「ハッブルの法則」と呼ばれている。

 一般的に言って、日本語の場合、どうも前者の「既存の語を援用して新概念を名付ける」という方法に、累代あまり熱心ではなかったように思う。知っている人は知っている通り、上記の概念を日本語では「赤方偏移」と言うが、確かに字面から意味はわかるものの、「偏移」はちょっと特別で、他にあまり使い道がないことばだ。学習上、ほぼ、このための新語を覚えるに等しい努力を強いられる。これがもっと簡単な言葉、たとえば「赤方移動」とでもして、なにかと混同してややこしいかというとそんなことはないので、どうして「偏移」などという漢語をこれに当てたのか、よくわからない。

 科学以外の分野で、わかりやすい例を思い付いたので付け加えておこう。パソコンにまつわる「ホームページ」「ショートカット」「プロパティ」といったような、いわゆる「カタカナ語」が、「新概念に新語」の好例になっていると思う。アメリカで使われている言葉を翻訳せずにそのまま持ってきたものなのだろうが、これを見る英語圏の人の感覚は、我々とはかなり異なるはずである。「プロパティ」などという語は、かなり多くの日本人にとってウィンドウズ用語として最初に出会い、操作上のある概念を表す言葉として棒暗記する単語ではないかと思うのだが、もちろん本国では違うはずである。「property」には性質、特質という意味があるので、英語圏のウィンドウズ学習者にとっては、まだしも内容の想像がつくところかもしれない。

 この違いは、畢竟、新しい概念を表すために、辞書に新しい言葉を付け加えるのか、それとも辞書の既存の言葉に新しい意味を付け加えるのか、という方針の違いであると言える。日本語の「約分」は、完全に「分数において分母と分子を公約数で割ること」の意味で、押し入れを約分する、などという使い方はできない。しかし一方で、英語の「reduction」はまず第一に「小さくする」という意味であって、学習者はここで新しい言葉を覚える必要はないわけである。例外も多いし、他分野ではどうか、あるいは日本語と英語圏の違いとまで一般化できるかどうかはわからないが、だいたい、そういう傾向はあるのではないかと思う(だから、今は仮にこれを「日本語式」「英語式」と呼んでおくことにする)。

 ただ、これは違いであって、優劣とは言えないかもしれない。日本語式の場合は、新しい、難しい言葉を覚えなければならないから大変だといって、英語式の名付け方のほうが有利かというと、そんなこともないと思うのだ。「近道」などという意味には関係なく、パソコンにおけるショートカットは近道とは別の「ショートカット」という概念でしかないし、また「メール」という言葉が電子メールや携帯電話のショートメッセージを指す言葉として普及したお陰で、日本語の場合、伝統的な「手紙」との間の区別をはっきりつけることができる(「メールじゃなくて手紙で送ってよ」といった具合に)。それぞれにいいところがあるのだ。問題は、学習者にとってどちらの命名法が有利かということだが、特に根拠はないものの、どちらか一方、その人にとって慣れているほうが便利で、一概には言えないものかと思ったりもする。

 ところで、そういうことで考えると、この「新概念の名付け方」は、子供の名付け方の習慣に一脈通じるものがあるのではないだろうか。近年、日本で、周囲で生まれた子供たちの名前を見ていると、「倫句くん」「未来翔くん」といった具合に、それはもう恐ろしい名前がゾロゾロあって、どうなるニッポン、などと思うことがある。しかし、よくよく我が身を振り返って考えてみれば、曽祖父の時代から私くらいの世代にわたる変遷を見たとしても、人の名前はずっと同じ傾向でつけられていたかというと、決してそんなことはない。たとえば、江戸時代とは明らかに名付けのクライテリオンが違うのである。もしかして、私やあなたの名前も、誕生時にはずいぶんモダンで、上の世代から見るとちょっとどうかと思うようなものでもあったのではないだろうか。ところがその一方で、海外には、聖書に出てくる「ジョン」だの「マイク」だのといった名前をひたすら順列組み合わせにして我が子に付けつづけている地域もあるのだ。まったく新奇な名前をつけようとは、あまり思わないらしい。

 そしてそこが、概念の名付け方と似ていると思うのである。最近の、新しい、人によってはちょっとそれは、というような子供の名前の根本には、我が子に今までにない、新しい名前をつけたいと思う気持ちがあるのではないかと思う。先人が作ったイメージに重ねて、いわば辞書の「花子」の項に新しい意味を付け加えるのではなく「愛梨菜」という一項を新たに加えるような、そういう発想だと思うのだ。概念の名付け方と子供の名付け方、どちらかがどちらかの原因になっているのか、それとも両方が「日本語」という言語の構造に起因するのか、よくわからないが、そう考えるとヘンテコな名前の子どもたちやその親を歓迎する気持ちになってはこないだろうか。いや、決して自己弁護ではないのだけれど、そんなふうに思う。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む