論者という言葉には妙な魅力がある。ここで言うのは、たとえば攘夷論者とか開国論者というときの「論者」のことだが、魅力というよりも、アルコール度が高い言葉と(司馬遼風に)表現したほうがいいかもしれない。ためしに「首都は移転したほうがよい」のかわりに「私は首都移転論者である」と例文を作ってみると、この感覚がいくらかはっきりする。本来個性を持ち、とらえどころのない自分の思想を、ある型でもってぐらつかないように固めるような機能があって、他の「論者」を自動的に排斥するような雰囲気も感じられる。
もっとも、私のような小人にとって危険なのは「論者」のそんなところではない。この言葉、不用意に使うと非常に恥ずかしいのである。まず、本を数冊読んだくらいの半可通の癖に「邪馬台国九州論者」と名乗るような恥ずかしさがあるが、特に科学的な命題の場合、相手を納得させるために通常必要なのは「論」ではなく実験的証拠であり、なんであれ論者と名乗ること自体恥ずかしいことであると私は思う。たとえば「宇宙膨張論者」というとき、そこには暗黙の了解として「宇宙が膨張していることについて、最強の反対者さえもうなずかせるに足るだけの証拠がまだない」という含みがあるといえる。つまり「地球球形論者」なんていうものはないのだが、しかし、十分な証拠がないのであれば、考えてみるとそれはまだ科学ではない。そこをなんとか議論の力でもって押しきってしまうような「論者」は、科学には不要なのだ。
そこで「無神論者」について考えよう。かみさまはいない、と考える人のことだが、これもつまり「論者」であって、私はこの言葉にいつもちょっとした気恥ずかしさを覚える。私は、虚心に考えてこの無神論者というカテゴリに入るのだと思うが、確かに、特定の時代、特定の地域において、周り中なんらかの神様を信じている人たちの中、ひとり「かみさまはいない」と主張するときに、そこにいるのは「論者」でなければならなかった。しかし、私の育った環境はそこからあまりにも遠く、しぜん、私の主張にも外向きの強さはない。なんであれ、こんなものが「論者」であるはずがないのである。ちょうど強固な「有神論者」に対して、やや消極的な「信者」がいるように、無神論者の弱いありかたとして「無信者」という階級があるならば、私はそう名乗りたい。
さて、以上は、要するに「私は無神論者である」と言いたいための(そして、言いたくないがための)前置きなのである。ややこしいことを書いて申し訳ない。つまり、結局のところ、そんな無信者であるところの私だが、ではそうした超自然の存在に対して、まったく冷淡なのかというと、そんなことはない。それどころか「ナニナニしますように」という願かけの言葉を、いずこに向けてとも意識しないまま平気で発することがある。どういうことかというと、手紙や電子メールを書いた時に、末尾にそうした祈りの言葉を付け加えておくことが、たまにあるのだ。
こういうことである。「フォースがともにあらんことを」。スターウォーズに出てくるこの別れの挨拶は、詳しくは聞かれても答えられないがいずれ「幸運をお祈りしております」ということに違いない。「レンズマン」で使われている「クリア・エーテル」というのもそうで、他にもあったと思うが今は思い出せない。なんだか格好いいのだが、そもそも「グッバイ」というのからして「God be with ye(you)」の縮まったものらしいので、そう思えば「May the Force be with you」と本質において変わらない。もともと「神のともにあらんことを」と言いあっているわけである。
といって、これをそのまま使うのは、あまりよろしくない。私の、彼の信仰がどうだったかわからないが、友人がよく使っていた文句で「良い風が吹きますように」というものがあった。私自身、真似て何度か使ったこともあるので、何かの用事で私からのメールを受け取ったことがある(そんなに多くはない)ひとたちの中に、見たことがある方もいらっしゃるかもしれない。電子メールの最後に、相手の幸運をそう祈って締めくくるわけである。どこかから持ってきた決まり文句なのかも知れないが、オリジナルだという可能性もある。
説明を試みれば、これはつまり「カオスがあなたに微笑みますように」ということではないかと思う。風というのは、気象なのであって、つまりカオス的現象の最たるものである。バタフライがどうしたこうしたと言われるように、大気の状態というものは、ちょっとした初期値の違いがどんどん増幅されていって、最終的に大きな変化を生みだすので、ある程度以上正確な未来予測は絶対にできないとも言える。絶対にというのは、どんなに科学ないし技術が進歩しても、ということである。
だからして、そこから先の部分では、信じてもいない神様(かなにか、超越的な存在)に祈っても構わないか、と思う。その点でこの「風」はうまい。確かに、自分になすべきことがまだあるのに、ただ祈り、神を信頼することで最善を尽くした気分になるのは良いことではない。普段から神様など信じていないのであれば、なおさらである。ただ、原理的に自分の力が及ばない領域もまた存在するわけで、そこで起きることについては、どうだろう、ほかに出来ることもなにもないのであって、祈っても構わないではないか。
この言葉を使っていた友人とは、大学院の卒業以来会っておらず、数えてみるともう八年が過ぎ去ろうとしている。いろんなことがあって、いろんな偶然に出会ってきたが、彼が祈ってくれたからかどうか、だいたいにおいて、この年月、私の人生は悪いものではなかったと言えそうである。あるときには自分の努力や能力の不足から、ちょっと困った事態に陥ったことも何度かあるのだが、それでもまず、風はよい方向に吹き、忙しいさなかでも、ベランダで、洗濯物はパタパタとはためいていたのだ。
いったいに、祈りというものに力があるとすれば、これだけの歳月を経てなお、春めいた風を感じながら、その友人のことを、自分の幸運を祈ってくれた人があったことを思い出すという、そこのところかもしれない。無信者でよければ、私も祈りたいと心から思っている。皆様にも、よい風が吹きますように、と。