鳥なき里のコウモリ

 単に「ロールプレイングゲーム」ないし「RPG」というと、現在ではふつう「ドラゴンクエスト」とか「ファイナルファンタジー」に代表される、モンスターとの戦闘に勝利を重ねることで経験を積み強くなる主人公を操って、やがて最大の敵を倒す、そういうコンピューターゲームのことを指す。しかし、一部にはよく知られているようにこれは本来の、コンピューターを使わない「ロールプレイングゲーム」とはちょっと違う。いや、オリンピック種目の「射撃(シューティング)」と「シューティングゲーム」の差に比べればずっと似ているとは思うが、ロールプレイングゲーム本来の主眼は戦闘の解決でも謎解きでもなくて、ロールをプレイすること、つまり自分ではない誰かの役割を演じることだ、ということになっている。

 この事実は既に「ダンジョンズ&ドラゴンズ」のような原型的な、いわゆる「テーブルトークRPG」でかなりあやふやになっていたことのように思うが、誰かの「役割」を演じることを目的とするなら、経験値とレベル上昇のようなシステムはべつに無くてもいいし、それどころか戦闘自体起こらないなら起こらないで構わない。他人を演じること、つまり「人付き合いが苦手な高校生で休み時間には本ばかり読んでいる。視力は両眼〇・一」とはどういう気持ちのものか、あるいはもし自分が「妻に先立たれ高校生の娘と二人暮しの四五歳システムエンジニア。最近会社をクビになった」という立場で世の中を見ているとしたらそれはどんな眺めなのか、そういう想像をすることは、確かにそれだけで一つの「ゲーム」と言ってもいいくらい興味深く奥深いものでないかと思う。

 ただ、もちろん、こういう市井の人々よりはたぶん「悪魔の実を食べて体をゴムのように伸縮させる能力を得た海賊船長。夢は海賊王になること」といったキャラクターを演じるほうが楽しいとは思うし、それでほとんどの(テーブルトーク、コンピューターによらず)RPGはこういうことになっているのだとは思うのだが、慣れてくると四五歳無職にもなかなか味がある、かもしれない。意外に重要なことは「人前で演じる」ということで、ちょっとカラオケにも似た楽しみがあると思う。

 そういう目でロールプレイングゲームのルールを見ると、力、賢さ、というようなパラメーターや、刀剣レベル七弓矢レベル四といったスキルは戦闘の処理の役に立つだけのものではなくて、そのキャラクターをよりしっかりイメージさせるための道具でもある、と考えることもできると思う。力は強いがすばやくはなく、賢さは悲惨なほど低い、そういう「戦士」の立場に立ってゲームフィールドを眺めてみたことのある人はそうは多くないと思うのだが、このキャラクターが現実世界にいればどんな感じの人間なのかという想像はある程度普通にされていることではないか。

 またこうした数値やさまざまなルール(ヒットポイントが0になるとキャラクターが死ぬ、など)は現実の世界をゲームの中に写し取るための仕掛けでもある。経験を積むとレベルが上がって強くなる、というルールも「練習すればうまくなる」という現実世界でよくあることをシミュレートしたものには違いない。

 さてそこで思うのだが、現実に我々がなにかに習熟してゆく速度は、決して一様なものではない。剣術でもタイピング速度でも笛を吹く技術でもなんでもいいが、グラフの横軸をその習得にかけた時間、縦軸をその技術のうまさとしてグラフを書くと、たぶんその習熟線はまっすぐにはならない。技術の種類にもよるだろうが、たいていの場合、最初しばらく急激に伸びたあと徐々に緩やかになるような、おじぎをする曲線になるのではないだろうか。つまり、始めはちょっと練習するだけでうんと上手になるのだが、やがて壁に当たり、いくら練習してもほとんどうまくならない時がやってくるのである。

 そして、なるほどコンピューターRPGにおいても、ゲームのルールはおおむねこの現実をちゃんと写し取っているように思う。キャラクターのレベル(と単に言った場合は「戦闘習熟レベル」の略ということになる)が第1レベルから第2レベルに上昇するためには数ポイント程度の経験値でよいが、第21レベルから第22レベルには数万ポイントもの経験値を要するようになる。初心者はめきめき上達するが、名人には「開眼」はなかなか訪れないのである。

 ただ、ここに余計な注釈を入れるならば、だからといって一心に数万匹のモンスターを殺しつづけなければならないようなゲームはあまりなく、代わりに戦闘一回につき数千ポイントの経験値が得られる、それなりの強さの敵が出現するようにバランスしてあるのが普通である。遊んでいるほうの感触としてはゲーム終了までずっと、リニアにレベルアップの瞬間が訪れるようにできているわけであるが「壁を破るための修行」ということで言うと「弱い敵数万匹」のほうがむしろふさわしいような気も、ちょっとする。たとえば柔道選手がオリンピックの決勝で対戦した相手から何かを得ることは、あまりないのではないか。地道な日々の練習ではなく。

 よい物語よいSF小説がそうであるように、よいロールプレイングゲームは、プレイヤー自分自身の生き方もまた一つの「ロール」であると相対化し、客観的に見る機会を与えることで、なにかしら変革のきっかけを与えるものである。私なんかがそんな大上段に構えて言ってしまってよいものかどうかわからないが、人生がこのように「入門はたやすく、習熟は厳しい」ものであるとするならば、最もよい生き方は全てのことに入門し、しかし必要以上に習熟はしないことであるかもしれない。

 実際、人生において本職の技能はまず除くとして、そのほかの場面でまで名人級の習熟が要求される、あるいはあると嬉しいような事態は、ほとんどないと思う。たとえば自動車の運転は制限速度で運転していて事故を起こさない程度に慣れていればそれでいいのであって、F1選手が争っているレベルのように〇コンマ一秒他の人より早く目的地に着けたところで、実質的にはなんということはない。海岸のキャンプファイアーで仲間にギターを聞かせるときに、本職のギタリストのような技巧がなくとも、適当に三つ四つ和音が鳴らせる程度で結構楽しいものである。みんなが持っていない技術を持っているということは、たとえそれがRPGで言うとレベル1か2の技能であっても、かなり有効なのである。

 人生において、レベル1でもいいからあると役に立つ技能は考えてみるといろいろある。思い付くままに並べてみると、こんな感じだろうか。
・何か楽器ができること。世界はかなり音楽でできている。
・同じく歌が歌えること。恥ずかしくなく人前で歌える歌がいくつかあるだけでもいい。
・地図が読み書きできること。
・手品のレパートリーをいくつか。
・踊れること。あるいは肉体で感情を表現できること。
・失礼のない、丁寧な手紙を書けること。オリジナリティを発揮できるほどでなくていい。
・絵が描けること。いたずら書きでもいいから、ビジュアルに考えを表示できるのは素晴らしいことだ。
・筆である程度きれいな文字が書けること。書けないとその機会ごとに恥をかく。絵と似たスキルのように思うのだが、厳然として別のものであるらしい。
・針と糸で衣服(特に取れたボタン)を応急修理できること。べつに手製の洋服を作れるほどでなくて構わないし、ミシンも使えなくていい。
・タッチタイピング。キーボードアレルギーでない程度に。
・料理ができること。二、三日分くらいの献立が自炊できるくらいでよい。
・手ごろな大きさ重さのボールを投げてそこそこ大きな的に命中させられること。
 まだあると思うが、どうだろう。それぞれたいしたことないスキルではあるが、あれば役に立つ一方、ないと辛いものである。特に私は「筆で自分の名前を綺麗に書く」のスキルが欲しい。本当に欲しいといつも思っている。

 ただ、振り返ってゲームのキャラクターについて考えてみると、ゲームの登場人物としては「なんでもちょっとずつできる」というタイプは意外に使いでがない。たとえば「僧侶と魔法使いの両方の呪文を使える」というキャラクターは、結局1ターン(戦闘における行動順番一周分)につきどちらかの呪文しか使えないものである。戦闘において使用する武器は一つだけなので、剣も斧も槍も同じように使えるキャラクターは、剣一ふりにものすごく習熟した人にかなわないのだ。ゼネラリストは損をするようにできている。

 しかし、ゲームの主人公と違い、我々は自分の人生を一回しか生きることができず、先ほど書いたとおり経験値とレベルに関して「初心者優遇」という傾向がある以上、さまざまなスキルをちょっとずつ習得するということには非常に大きな意味があるはずなのである。この差はなんだろう。結局のところ、世界を救うような英雄に、楽して少しずつ多数のスキルを獲得し、自分の人生を楽しむような余裕など与えられていない、ということなのかも知れない。そういえば、現実世界においても、それぞれの道の専門家というのは常に本業一本を残し、必要でない全てを切り捨てて邁進する人間であるような気もするのである。どちらがいいのかよくわからない。例外も多い、いささかロールプレイングゲーム的な類型的把握というものかもしれないが。


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