不死の狩人

 その気配を感じたとき、それはそれは、もうあまりにも久しぶりだったので、彼はしばし自分のすべきことを思い出せなかった。のろのろと背中に手をやろうとして、そこにはもう剣はないことに気がつく。もう剣はない。いや、ここ百年ほど、あったためしはない。彼は我にもなく、伸ばした手を無意味に握って、開いて、元に戻して、薄汚れた洋服のポケットにつっこんだ。

 本当に、俺は《ヴロフロッグ》をどうして手放してしまったのだろう、と彼は自問する。あれは軽くて、しなやかで、本当に自分向きの剣だった。神鉄と咒紋と聖炎で三重に強化されていて、『魔』に対する大きな力を持っていた。彼の最も信頼する相棒と言ってもよかった。それが今は――と彼は汗じみたポケットの中で、ようやく小さな粒を探り当てる――かろうじて武器と呼べるものはこの《飛礫》だけだ。つまり、そうは言っても時代は変わったのだ。剣が個人用装備として不似合いどころか、異常で物騒でただちに当局に通報すべきモノにまでなったとなれば、いかんともしかたないではないか。

 彼は意識して気配を殺しながら、ポケットの中の《飛礫》を一粒より分けて、握りしめた。彼が歩いていた街路から、さりげなく建物の間の狭い路地に転げ込み、どぶと油のにおいのする地面にぐったりと倒れ込むような、そう、ふりをする。こんな時間になってもひっきりなしに街を通り過ぎてゆく人々からは、宿無しが酔いつぶれているようにしか見えないに違いない。なんの、実質もほとんどそれに近いのだが、『魔』の気配が近づくに連れ、彼の頭は逆に冷たく澄み渡ってゆく。あとは『魔』にもこの偽装が、少しは効果がありますように。

 不死の体をもつ彼は、長いながい人生の末、最近では、どんどん過去のことを思い出せなくなっている。彼に言わせれば、人間の記憶というものは、柔らかい粘土でできた像のようなものだ。それがいったい何をかたどっていたものか、暗闇の中、手探りで知ろうとするのに似ている。曖昧な記憶を必死で探り、詳しく思い出そうとすればするほど、記憶は事実とはかけ離れた形に容易に変化していってしまう。今となっては、たとえば彼の《ヴロフロッグ》を捨てた本当の理由は何だったのか、ある『魔』に破壊されたのだったか、彼自身でどこかに捨てたのだったか、それが大西洋の外洋汽船からだったか、それとも火山の火口にだったか、そんな重要な記憶さえもいいかげんになってしまっている。いじり回しているうちに形をすっかり変えて、残ったのは鵺のようなわけのわからない塊。

 彼は、倒れ伏したまま、皮膚感覚で、通りすぎてゆく普通の人々のあるかなきかの視線を感じつつ、それを簡単に受け流す。彼の唯一無二の相棒に関する記憶さえそんなであるから、定命の人間たちに関する記憶は言わずもがなである。彼が世界中を放浪し『魔』を狩る旅の中で、人としてつきあってきた数多くの人々。人間と、彼、不死の狩人では、あまりにも立場が、いや、生き物としての意味すら、違い過ぎる。彼が話した歳も言葉も時代もさまざまな、男たちも女たちも、みんなその形を崩し、混ざり合って、ただぼんやりとした、影のような記憶が残っているだけだ。すべては影だ。

 それでも彼がただ一つ覚えていることがある。この『魔』が七三匹目だということだ。

 彼は、二千年と少し前、ある『魔』によって強力な呪いを受けた。きっかけが何であったかは、今となってはどうでもよい。人間社会の裏側としか呼べないそこに棲む、物理法則を逸脱した存在、『魔』、によって、彼は別種の存在へと変化させられたのだ。それ以降、彼は『魔』を百匹倒さない限り、絶対に死ねない体になった。歳も取らない。傷を受けても通常ではあり得ない回復力によって生き延びてしまう。以来ずっと、彼は不死の狩人として『魔』を狩っている。二〇〇三年八月現在までの戦績、七二。

 止めていた熱い息をゆっくりと、濡れたコンクリートの上に吐き出して、止める。気配はまだ遠い。いや、小さいのだろうか。そういえば、彼に呪いをかけたような強大な『魔』には、最近滅多にお目にかかったことはない。最近、そう、千年ほども。仕事は楽でいいけれども。

 不死がどうして呪いなのだろう、と彼はずっと思っていた。死なない、ということは普通とてもよいことだとされる。死ねば魂が天に召されるという抽象的で検証不可能な仮説に関する証拠は、結局のところ何もない。であれば、他にすることがないでなし、できれば死にたくないではないか。それなのに、彼は呪いを受けた結果不死というご褒美をもらい、その上呪いをかけた『魔』の同族を狩っている。なにかがおかしい。

 彼は自分の境遇と、二つ目のミレニアムが終わったこの世界の姿を知っていた。自分が特別の存在であり、自分のような狩人も、『魔』も、存在するとされてはいないものであることを理解していた。理解しすぎていた、と言ってもいいかもしれない。この世界とそこに住むほとんどの人間にとっての世界観を構築している科学というものが、彼のような一事例をもってその針路を変え、あるいは進歩するものではない、ということを知っていたのである。ほほう、不死ですか。それで『魔』を狩っていると。ではその『魔』のサンプルをいただけますか。いや、来た。近い。

 突然彼は顔を上げた。地面のわずかなくぼみに押しつけていた足の筋肉を解き放ち、爆発的に加速した体の勢いとともに、鞭のようにしならせた腕の先から、さらに指先の筋肉を使って《飛礫》を撃ち出す。冷たい地面に押しつけられてかすんでいた目が焦点を結ぶよりも疾く、強化されたつぶての軌跡は過たず通行人の一人、暗色の衣服に身を包んだ男の額と彼の指先をつなぐ。そのまま一動作で防御と次の攻撃に備える狩人の前で、七三匹目の『魔』はゆっくりと膝を折り、その動きを終えるともなく、靄のようににじんで、かすんで、空気の中に拡散して、薄くなって、消えた。

『魔』がまとっていた衣服が散らばる辺りを囲むようにして輪ができ、通行人が騒ぎ出している。彼も早く消えなければならない。が、彼はしばらくその『魔』が逝った跡から、目を離せなかった。《飛礫》一つで消滅。あまりにもあっけない。なあ《ヴロフロッグ》。

 結局、これこそ呪いたるゆえん、そういうことかも知れない、と裏通りをたどる足を早めながら、彼はついに降り出した空を眺める。ビルの影とネオンと照明に切り取られた空。この世界にとって、理解されざる存在になること、局外に置かれ、次第に忘れ去られてゆくことこそ、彼の受けた呪いの本質であるのかも。それが故に『魔』を狩ることが刑罰になりうるのかも。

 彼はポケットの中、ついに一つだけになってしまった《飛礫》を指先でもてあそびながら、さっきの現場に戻って《飛礫》を回収するべきかどうか、悩んでいた。あと二七匹。そして彼の商売敵は科学そのもの。この戦いに勝ち目はあるのだろうか。目深に被った野球帽の鍔の端から、一筋の雨が頬を伝って流れ、彼はもう一度天を仰いだ。そこは暗かった。


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