カンダツの木の下で

 ただいまご紹介にあずかりました、生徒会の、副会長をやっております、三年五組の岩城です。どうしてここに会長がいないかと申しますと、ばっくれ、あ、いえ、季節外れのインフルエンザで高熱に苦しんでいる、とのことで、きゅうきょわたくしがご挨拶さし上げることになりました。かいちょうのたいちょうがかいちょうでないということで。

 つかみはオッケーでしょうか。なにか非常にさむいことを言ってしまったような気もしますが、ええと、生徒会役員から、新入生の皆様に贈る言葉をお話しするということで、私の得意分野から、今日はカンダツの花のお話をさせていただきます。カンダツというのは、バラ科の植物で、春先、ちょうど四月の今頃に赤い可憐な花を咲かせます。特にここ茨城では生け垣などになっているのをよく見かけますが、新芽が発する独特の香りが有名な花木です。

 このカンダツの花についてお話しする前に、「積算温度」という言葉の説明が必要です。この積算温度は、稲の刈り入れ時期ですとか、桜の開花などでニュースでも耳にすることがありますが、いつ花が咲くかを判断する方法として、毎日の平均気温を足しあげまして、それがある数値になったときに花が咲く、というふうに判断して、これを「積算温度」と呼ぶそうです。農業や園芸で使われている術語です。

 ちょっと考えると、おかしな話だと思います。必ずしもこの「積算」は摂氏温度について行うわけではないのだそうですが、たとえばそういう話になる場合、摂氏20度の日が1日あるのと、摂氏10度しかない日が2日あるのとは、等価で交換可能である、ということになります。摂氏10度の日3日と摂氏30度の1日が同じです。草木というのは、果たしてそういうものなのでしょうか。寒い日ばかりが続いたり、あるいは逆に記録的に暖かい日ばかりが続いたとしても、ちゃんと、たとえば積算温度250度を達成すると花が咲いたりするものなのでしょうか。

 もちろん、これはそもそもそれほど精密なものではなく、一種の簡便法にすぎないのだと思いますが、わりあい精度よく花や刈り入れの時期を予想できるもののようですから、実際に、ある程度は「寒いと収穫期までの期間が伸びる」というような構造があるのでしょう。これを思い切って単純化し、毎日の温度を足し上げるなどという方法を発見したのは、私は経緯を知りませんが、かなりえらい人ではないかと思います。

 さて、カンダツです。この花の時期について、面白い性質があるのだそうです。カンダツは「春先、寒い日があると花の時期が遅れる」のは桜などと同じですが、積算温度を予測に使う場合、その計算の基準となる基準温度が摂氏10度くらいにあるのです。

 これがどういうことかと言いますと「寒い日はマイナスでカウントされる」ということです。摂氏5度の日があると、その日がなかった、あるいは摂氏10度だったとした場合よりも、かえって花の時期が遅れるのです。基準温度がもっと低いところにあれば、毎日摂氏5度でも少しずつは花が近づいてくるはずですが、カンダツはそうはなりません。生物ですから理論通りには行きませんが、積算温度だけを見ていると、そういう木であるということになります。

 私が新入生の皆さんにお贈りしたいのは、高校生活はこのカンダツの木のごとくである、という言葉です。皆さんは、この高校に入ってこられて、これから毎日、勉強にあるいは部活動に、自分を磨く日々を送られることと思います。しかし、その「基準温度」は、意外に高いところにあるようなのです。
 たとえば、今日はこれでいいや、少しは進んだだろう、といい加減な日を送ったとします。ところが、これは決して目的地に近づいていることにはならないのです。そのような日はかえってマイナスになります。目的は自分を磨くことにあるのですから、常に努力を、自分の限界という基準温度を超えるべく、真の努力を続けなければなりません。自分では一生懸命努力したと思って、実はやっとその場にとどまるだけ、もう一段の努力がなければ前には進めないのだということを、皆さんにぜひ考えていただきたい、と思います。

 ところで、カンダツという木は存在しません。「生徒会長が休みである」ということを聞きまして、私が15分ほど前に考えました。ええと、積算温度云々もでっちあげであります。

 はい、ええと、すいません、ええと、ふんきゅうしておりますが、ばせいが飛びかっておりますが、もうちょっとだけ。ええ、今の私の話が嘘であるとして、いったいそれにどういう意味があるというのでしょうか。

 そもそも、本当だったとして、これは「カンダツ」という木のいち性質を取り出して言ったものにすぎません。それがどのようなものであれ、それとあなたの高校生活の送り方は、根本的になんの関係もないのです。ここからなにか教訓を取り入れられるとしても、それはもともと比喩的なものにすぎません。

 一方、嘘だったとして、では嘘の話からは何の教訓も得られないでしょうか。たとえば童話の「うさぎとかめ」の話で、いったい「うさぎが昼寝をしている隙に云々」という話が本当にあったことだと信じている人がいるでしょうか。教訓は、もとの話が本当だろうが嘘だろうが関係なく得られるものなのです。私の話を聞いて、なるほどと思う人は話の真偽に関係なく自らの心構えをただすでしょうし、なるほどと思わない人は、話がたまたま真実でも、関係ないことでしょう。

 えーと、そういうわけです。皆さんはそろそろ、地域により時代によっては、文化的に「大人」と見なされてきたような年代です。ぜひ、真実を見抜く力を身につけ、教訓は自分で学び取る姿勢を身につけて欲しいと思います。以上です。ごせいちょう、ありがとうございました。


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