観光地かスキー場にある、リゾートホテルの最上階近くのバー。一人の若い女性が、ちょっとした悪運のせいで一人で酒を飲むはめになり、しかたなく時間をつぶしている。そこに、初老の男性が声をかける。きちんとした身なりをして、どこから見ても五十歳より若いとは見えないのに、妙に若い話し方(ほとんど今時のワカモノのような)をする男性に、女性は少し興味を引かれる。ひとしきり女性の笑いを誘ったあと、男性はこう切り出す。
自分は、実はタイムトラベラーである。
彼が懐から出したのは、電気屋街で買ってきたような安っぽいケースに入った小さな装置。ケースの加工などは仕上げもぞんざいで、しかしその中身は、いくら目を凝らしてもはっきりとはつかめないような、複雑な構造が詰まっている。男は装置をカウンターに置いて、映画や小説の引用も交えつつ、タイムマシンの物理に関する簡単な講義を一くさり、それから自分の身の上を話し始める。
男性は、1990年の生まれである(男女がバーで話している、物語の設定年代は2005年)と話す。彼は二一世紀を成長し、大人になり、物理学者になって、所属したチームと共にタイムマシンを発明した/することになる。プロジェクトメンバーに一台ずつの実用タイムマシンを製造したところで、彼はひとり、1995年にタイムトラベルした。他のメンバーの行き先はわからないものの、彼自身に関しては、2005年まで生活すると、また十年前に戻るという、そういう行動を繰り返して、ついにこのような年齢に達してしまった、という。
なぜ九五年なのか。彼は言う。実はこの十年は、日本と日本人にとって最も幸福な十年だった。個人の生活が極限まで豊かになり、娯楽が街にあふれ、世界は(少なくとも平均的日本人にとって)平和で、テレビもビデオも映画もあり、インターネットもコンビニも既に発明されており、美味な酒や食事には事欠かず、匿名性は保たれつつも治安はすぐれていて、致命的な感染症も大流行はせず、医療は世界一のレベルを誇り、経済は安定して、大災害も(少なくとも東京周辺には)なかった。そしてこれからの十年は、と、ここで男は言葉を濁してしまう。
とにかく、いまこうしてまた平和な十年が過ぎ、2005年がやってきた。タイムマシンを使うべきときが。しかし、自分も最近では年齢を重ねて、また一人で二〇世紀末に戻るのは、なんともつらい。男性は女性に強く勧める。一緒に1995年に戻らないか。孤独なタイムトラベラーとしての生活もさることながら、あなたのような人が、これからの十年に痛めつけられ、二十代三十代を過ごすのが耐えられないのだ(と、ワカモノ口調で)。女性は男の言葉に悩むが、結局、男を信じられず、首を振る。男は残念そうに「タイムマシン」を懐にしまい、万感の想いをこめたふうに、さよなら、と告げると、意外にもあっさりとバーを去ってゆく。
と、以上は、ここに書こうと思って作ったプロットなのだが、実際に書いてみるとえらく長くなる上に分割もできないので、仕上げないで放棄していたものである。これまでの十年の幸福さ、これからの十年への不安、というようなものを実例を挙げつつきちんと書ければ、なかなかいいものになるのではないかなと思った。
さて、ここで話は唐突に変わる。銀行に預けておくと、一般に預金には「金利」というものがつくが、いったいどうしてこういうものがついてくるのだろう。
経済への私の知識の乏しさ、認識の甘さを白状するようで恥ずかしいのだが、これは結局、預けたお金が運用されて、利益を生むからだろう。お金を預けておくと、そのお金が株式投資などの形で企業の活動資金になる。製造業の会社なら、会社はそのお金で材料や機械を仕入れ、労働者にお金を払って材料を加工し、消費者に売って売上げを得る。ここからかかったお金を差し引くと、貸してもらった活動資金を返して、さらに利益が残る。利益の一部は「活動資金を貸してくれてありがとう」という意味で、投資家に戻る(株価の値上がりであったり、配当であったり)。そうして、そのお金のさらに一部が、預金者へ金利という形で返還される。そういうわけだと思う。
そういうわけなので、要するに、一年前の一万円は、今日の一万円よりも価値がある。「インフレ」というものがあるので一概には言えないが、過去のある時点でお金を預け、それを使わずに運用してゆくと、そのお金は物価の上昇分を上回って増えてゆくはずである。ざっとこういうわけで、預金には金利がつく。
ところで、以上の議論は、ここ数年ほどの日本に関しては、あまり成り立っていない。銀行に預けても、ほとんど金利がつかない。リスクのある株式投資に踏み切っても、年利率にすると1%くらいだろうか。消費者がお金を借りるほうも、住宅ローンなどでは利率1〜2%(最初の3年間だけとか、それなりに特別な場合だけれども)くらいに押さえることができるようである。物価も上昇していない(それどころかデフレである)ので、一年前の一万円と、今日の一万円は、実はあまり価値に差がない、ということになるかもしれない。
そこでタイムトラベラーだ。いま仮に、タイムトラベラーがいて、この十年ほどを何度も何度も繰り返し生きているとする。彼または彼女は、タイムトラベルの利用という優位性を生かし、持っているお金を投資して、働かずに暮らすことを考えるだろう。競馬などのギャンブルもよいが、どうせタイムトラベラーなのだから、株式に投資したり、元金が十分なら単に銀行で定期預金にして預け、その利子で食べていってもよい。繰り返し過去に行ってお金を預けなおせば、安全かつ確実にお金を増やすことができる。
ここでの問題は、そういうことがもし本当にできるとすると、それは経済全体の活力を失わせる、ということである。上の単純なモデルに頼って、利子というものが、企業が一年間に行ったお金儲けのおこぼれのおこぼれというものだとすると、それで養うことができる人数には限りがあるからである。タイムトラベラーが一人か二人ならどうということはないが、多数がこの時代を訪れていたり、またはタイムトラベラーが一人でも繰り返しくりかえしこの時代を利用していたら、影響は無視できなくなるはずである。
もちろん、資金が潤沢になることでそれなりに企業の儲けも増えるだろうし、私の書いたようなモデルはあまりにも単純でこういう非科学的な要素を導入することで実際の経済がどうなるかはわからないが、結局のところ、国民全員が働かずに食べてゆくことはできないのである。「お金に働かせる」という表現があるが、これは比喩であって、真実ではない。どこかで汗を流している人がいるから、利子で暮らす人が存在できるのである。多数のタイムトラベラーに襲われた時代は、銀行の利子は0%に近づき、株で儲けることは誰にもできなくなる、はずだ。
そこで空想しよう。もしかしてこの利子が少なかった十年は、タイムトラベラーがわんさと押しかけ、十年ごとの生活を楽しんでいった時代ではなかったのだろうか。
今回は本当にいいかげんなことを書いて申し訳ないが、上の物語のような出来事がもしや本当にあって、実は、日本経済はのべにすると非常な多数にわたるタイムトラベラー(とその子孫、タイムマシンが壊れるまで)をこの十年間養っていたのだ、と考えてみるのは面白い。繰り返し過去に戻る彼らが送る豊かな生活と引き換えに、他の投資家や利子生活者は辛酸をなめたのである。どうだろう。
わたしの、書かなかった物語のタイムトラベラーは、2005年で過去に引き返すことにしていた。「なぜ2005年か」というのは、話を思いついたのが2005年だという以上に深い意味はないのだが、もうひとつ、2005年は「新札が導入された年」だという理由も考えられるかもしれない。現時点でも、なかなか旧札の一万円にはお目にかからなくなりつつあるが、2006年だとさらに少なく、古いお札を用意するのは古銭を買い求めるのに近いものになるのではないかと思われる。まとまったお金となると、なかなか難しいだろう。2005年(特に年始頃)なら、そのへんの苦労はないわけである。
とすると、新札に切り替わった今こそ、日本経済がふたたび力強く羽ばたく時代が、つまり、タイムトラベラーたちの搾取をついに逃れた、高利回りの時代がやってくるのではないだろうか。いやだからそんなことはないと思うが、これから十年、タイムトラベラーが寄り付きもしない暗い時代が待っているのでないことを、祈ってやまない。金利が低くても平和な暮らしが一番である。