他の大学もそうなのか、あるいは今もあるのかどうかわからないが、私の通った大学では、入学して一年か二年ほどは「体育の授業」というものがあった。週に一コマ(90分)きりだったと思うが、毎週その時間になると、ハタチ前後の男女が数十人も、ゼッケンをつけたジャージに着替えてぞろぞろグラウンドに出てくる。大喜びでやってくる人はあまりいない。もっと言えば、こういうものはどうしてもないといかんものですか総長殿と思いながらやってくるのだが、体育は卒業に際しての必須単位だし、成績はもっぱら出席日数で決まるので、出てこざるを得ないのである。おおむねみんな来ていた。仮に同窓にアインシュタインがいても、出てきて1500メートル走を走っていたと思う。
そんな体育の授業だったが、最初の授業、総体的な体力測定の一部として50メートルのタイムでも計ってみようというとき、教官が我々に、こういうことを言って警告した。
「君たちの中には、浪人して入学して来た人もいると思うが、そういう人は絶対に思いっきり走らないこと。たいてい転ぶし、それだけならいいが、筋を痛めたり骨折する者がたまにいる」
私たちは笑ったが、教官は笑っていなかったので、どうもこれは真実そういうものらしい。なんでも、一年も勉強ばかりの生活をしていると、筋力が衰え、関節の可動範囲も狭くなるそうである。ところがここで、迷惑にも頭のほうは昔の、そこそこ運動していた自分を覚えていて、いざとなるとその意識で動こうとする。それでどうなるかというと、つまりこうパキとゆくのだ。
自慢げに語るようだが、十人ほどで組になって走った、その50メートル走で一番にゴールを駆け抜けたのは私で、これは私がいかに人の言うことを聞いていないかという証左でもあるが、私の体力が一つのピークを迎えていた、と言うこともできる。ついその前まで通っていた、高等学校までの距離が20キロもあり、そこへ毎日自転車で通っていたのは私だけだったように思うので、周囲のヒトビトに対する相対的な体力ということで言うと、確かにピークだったのかもしれない。もちろんその後、私の体力は滑り落ちるようにむしろポークに近いアレになる。人生には誘惑が多い。
これが数えてみると16年前のことで、それからいろんなことがあった。私はこの間、人間が運動をしなくて済むようにするのが科学技術の主要な任務である、とか、運動などするやつはみんな馬鹿だ、とか、脳が筋肉にはならないが脳が筋肉に支配されるようにはなる、等と広言してはばからなかったのだが、最近ひょんなことから高校生のときくらいの体重に戻すことに成功したので、がぜん運動の効用や体重管理の大切さについて主張するようになった。これは仮に、今朝からこの国は日本民主主義人民共和国です、ということになったとしても、私という人間は大丈夫うまくやっていけることを示しているように思われるが、それはともかくとして、七年も前に買って、雨ざらしで置いてあった自転車を取り出してきて、また通勤に使っているのである。
私にとって、自転車が日常に入ってくるのはほぼ四年ぶりのことだが、久しぶりに自転車に乗って、わかったことは次のとおりである。
一、自転車は何しろ頑丈なもので、四年乗っていなかったくらいでは壊れない。
二、自転車の乗り方というものも、四年乗っていなかったくらいでは忘れない。
三、ところが自転車を漕ぐ筋肉は、四年乗っていなかったら落ちる。
やせたときに、太ももがぐっと細くなって、ズボンを買い替えたらなんだか他人の足みたいでおかしかったのだが、当然ながら落ちたのは主として筋肉であった。いやさ脂肪だって落ちていたはずだが、やっぱり筋肉も落ちているに決まっていて、細くなった大腿n頭筋を振り絞って自転車で坂を登るのはなかなか辛いのである。
ところが、ここに新兵器がある。いやたいしたものではない。アイポッドシャッフルという携帯音楽プレーヤーだが、とにかくこれで音楽を聴きながら自転車を漕いでいると、不思議に辛い坂もなんとか登れてしまうようで、これまた一つの発見であった。昔の中国で使われた、手術のときの麻酔に「夢中になるくらい将棋を指す」というものがあったという話を漫画で読んだことがあるが、あながち嘘でもない気がする。音楽で気がまぎれると、辛くても足が前に進むようだ。
そして、気がつくと筋肉がついてきたのである。毎日、往復たった三十分自転車を漕いでいるだけだが、周辺の高校生や社会人との遭遇状況によれば、私が周囲よりずっと速い漕ぎ手であることは間違いないらしく、これはおそらく昔とったキネヅカを頭が覚えていて、衰えた今の体にまで昔の出力を容赦なく要請するせいではないかと思う。体のほうも適当にあしらっておけばよいのに愚直に筋肉をつけて対応するらしい。これは足の筋肉は脳が筋肉なのでしかたがないのである。
筋肉がついた。いいことではないか。もちろんだ。なんだこいつ雑文で自慢か。いや、もちろんなのだが、まずいこともちゃんとあるので安心されたい。せっかくやせて、一式全部買い替えたズボンの、足のところがだんだんきつくなってきたのである。胴回りは今のところ危機に瀕してはいないので、もっとも恐れる「夏になって運動も楽しくてビールがおいしくてリバなんとか」いう事態になってはいないと思うが、買い替えたばっかりのズボンがまたも履けなくなったと告げたら家計を預かる妻はなんと言うか。なにも悪いことをしたわけじゃないんだ、ほらアレ愛国無罪みたいな、と叫びたいところなのだが、いったい私は何を恐れているのか。そんなことも、16年前には思いもしなかったことだなあと、今日も自転車の上で考えている。