以前ここで「アンケートのお願い」という、アンケート形式の文章を書いたときに、これに対して本当に答える人がいる、という想像力を、どうして欠いていたのかよくわからない。当然、そういうことは起こりえるものとして考えておくべきだった。答えにくい質問をたくさん混ぜておくことで、回答を試みる人をふるい落とせると思い込んでいたフシがあるのだが、どうもそういうものではない。あるいは努力が足りなかった。
現実問題として、下条さんのものをはじめ、けっこうあちこちで回答をいただいており、メールでいただいたものを含めると思い出すだに恐縮してしまう数の回答をいただいてしまっている。問題自体を読み物として考えていると、どうしても「問題に答える人」のことを考えない、自己完結したものになりがちだ。仮に他人に答えてもらうものとして考えるのであれば、もっとボケやすく、答えていて面白い類のものを多数入れておけばよかったのである。本当に、申し訳なかったと思っております。
さて、この質問の中に「中島らもは惜しい人をなくしたと思いますか」というのがあって、いただいた回答を読んでいると、中島らものことはよく知らない、という人が多くて驚いた。私の中では中島らもは面白い小説を書くだけでなく、テレビに出演したりもするけっこうな有名人だったのだが、どうもそういうものではない。あるいは世界が狭かった。
中島らもは惜しくも亡くなってしまったので、知名度がこれ以上改善することはなさそうなのだが、彼のよく知られた仕事として「(中島らもの)明るい悩み相談室」というものがある。朝日新聞に連載されていたもので、読者から寄せられた「明るい悩み」に独特の回答を与える、コラムのようなコーナーの名前である。そもそも、私のアンケートのここで、どうして突然中島らもが出てくるのかというと、この「明るい悩み相談室」に「たこ焼きをおかずに」云々の話題が登場するからなのである(つまり、アンケート結果からすると、どうもこれも多数の人には通じていない)。単行本化されたのを私は持っていて、とりあえず他人に貸すと例外なく好評だったので、あなたも読まれたい。中島らもへの入り口として機能するかどうかと言われると、躊躇するのは確かだけれども。
そういえば、こういった「明るい悩み相談」、深刻でない悩みに深刻でない回答を与える形式のコーナーには、どうしたことか必ず深刻な悩みが寄せられるという問題があって、担当者の心労の種になっていると聞く。悩み相談のパロディ的なものであることが、客観的に見て明らかであるにもかかわらず、なぜか、何人もの悩める人々から、相当深刻な、解決しようもないどろどろとした悩みが寄せられるとのことである。上の単行本の中で中島らもも書いていたし、知人の運営していた同じような意図の悩み相談のサイトにも、やはり相当な本数シャレにならない悩みが送られてきて困ったそうである。そういうものらしい。
空気が読めない、ないし冗談のわからない人は常に一定割合いるものだし、本当に困っている人は藁にでもすがりたいものだ、というような理解すべき事情はあると思うが、結局「明るい悩み相談」というのは元来難しい所を狙った企画なのかもしれないとも思う。上のように、相談者の悩みがそれほど深刻であっては困る。それはコーナーの意図するところとは違う。それなのに、困ってもいないことをさも悩んでいるかのような顔で表現した「明るいニセ悩み」も、それはそれで面白くないのである。理想としては「他人の目にはくだらなく見えることで、しかしあくまでも真剣に悩む相談者」というものを必要とするわけだが、当たり前の話、そういう人はあまりいない。
なるほど難しい。難しいのだが、にもかかわらず、実は、今なお朝日新聞にはこの「明るい悩み相談」に相当するコーナーがある。もしかして朝日新聞にはそういう伝統、そして実績に裏打ちされた自信があるのかもしれない。「困ったときの掲示板」というのがそれで、私のところに配達されてくる版では、水曜日の朝刊に掲載されているようだ。以前は確か仕事上の相当深刻な悩みも掲載されていたような気がするのだが、最近はもう完全に「明るい悩み」化している。提示された相談に対して、読者から寄せられた解決法のうち、面白かったものを数本掲載するというスタイルからして、こうならざるを得なかったのかもしれない。
最新の悩みはこれである。
ブログ感想迫る仲間
ブログを始めたアルバイト仲間から、「更新したから見て。感想も書き込んで」と言われます。でも、日々の出来事を書き連ねただけの内容なので、何の感想もないし、見たくもありません。どうすればいいでしょう。(関東地方 高校生 男性 17歳)
どこを切っても名文なので、思わず全文引用してしまった。編集者の手で整理されているのだろうが、なんという簡潔にして達意の文章か。あまねく世の中のブロガー諸氏は、ぜひ一回ずつこれを読んで震え上がられたい。「何の感想もないし、見たくもありません」だそうである。「更新したから見て。感想も書き込んで」というのが実に痛々しくも微笑を誘う。それで、読んでみると日々の出来事なのだ。ああもう、いいじゃないか。許してやれよう。あいつもそういう年頃なんだよう。
記事では、これに対して、五人の読者が送った五者五様のアドバイスが掲載されている。「匿名で荒らしちゃえ」みたいなひどい(でも実効性と即効性はありそう)のもあるが、総じてなるほどと思う。私だったらたぶん、本当に日々の出来事だけのブログを与えられるとかえって面白くなって、分析したり添削したり、あるいは本文にあんまり関係ないコメント(本文との関係は「イモビライザーで思い出しましたが最近娘の幼稚園で『芋掘り』がありまして…」程度)を書き込んだり、たまにある鋭い感想うるおいのある表現に大賛辞を寄せ一方でつまらない部分をばっさり無視することによってなんとかアルバイト仲間を教育しようとしたり、そういうことを試みると思う。
と、そんな私のどろどろした部分はともかく、この17歳のカレの悩みは、本質的に明るくて優しい悩みである。正直に言ってしまえば、恋人でもあるまいし、アルバイト仲間なんか適当にあしらっておけばいいのだ。付き合わざるを得ない事情があったとしても、「読みました。今日もいい天気でしたね」程度の、それ相応に気乗りのしないコメントだけ書いておけばそれでよい。でも、そうはしないで、どうすればいいか悩んでしまうのである。悩んだだけでなく、新聞に相談まで寄せてしまう。優しい人なんだろうと思う。大げさに言えば、他人の人生の、こういう一端に触れられてよかったと感謝したくなる、そんな相談である。世の中のジャイアンリサイタル的ブロガーと、すべてののび太君たちに幸多かれと祈ろう。日々の出来事だけのブログが、いつか大輪の花を咲かせますように。
さてこのコーナー、次回は「職場での席の近い同僚のうめき声のような鼻歌で、仕事への集中力がそがれると悩む会社員男性の相談」だそうである。またしてもジャイアン。またしても明るい悩み。中島らもの血はこうして受け継がれて行くのかもしれない。