岩城直人が胸を押さえながら駆け込んできた部屋には、もう先客がいたので、直人はその場で意味もなく足踏みをして、息を整えた。一瞬の静けさのあと、直人を追いかけてきたらしい誰かがドアをノックする音がする。先客に「いないと言ってくれ」と無茶な願い事をして、部屋に置かれたロッカーの陰に隠れようとふたたび駆け出す直人を、苦笑いと、一抹の不安をもって、生徒会長植野俊平は見送った。
ここは直人たちの高校の本校舎の一角、五階の西の隅に位置する、生徒会室である。季節は冬。三学期になってからほとんど学校に来なくなった三年生たちが、ついに最終的に見送られる卒業式が、ついさっき終わったばかりだ。北関東の気候では冬に属する季節とはいえ、さすがに三月、日々日差しが強くなってくる時期でもあり、窓さえ締め切れば、生徒会室はなかなか過ごしやすい暖かさになる。
ロッカーの陰で、漫画的な表現をするなら「がたがたぶるぶる」と震撼している三年生、岩城直人は、去年の生徒会副会長である。夏に役員の改選があり、それからこちら、ついさきほど卒業証書を授与されるまでは、無役の高校三年生として暮らしていた。一方の植野は高校二年生。直人と一緒に会計として役員を務めたあと、この選挙で会長に選出しなおされている。この高校の風習によると、卒業式において答辞を読むのは生徒会長(だった生徒)だが、送辞を読む在校生は、どういうわけか現役の生徒会長ではなく、副会長の一人ということになっている。だから、植野は今日は特に仕事もなく、式が終わったあと、こうして生徒会室で時間をつぶしていたのだった。
「もう行っちゃいましたよ」
と植野が直人に声をかける。諦めたのか、ドアの外の気配はもう消えていた。やれやれと汗をぬぐいつつ直人は影から出てきて、部屋に置いてあるパイプ椅子に腰を掛けた。
「やあ、きみもここにいたのか」
と直人はやっと挨拶をする。植野と一緒に生徒会室の中にいた女生徒、直人と一緒に副会長を務めていたこともある三田美幸が、直人に向かって軽くうなずいた。
なんか、こんなこと前もあったなあ、と直人は思う。生徒会室の中、植野や三田と一緒にテーブルを囲んでいる。植野は持ち込んだ新聞を、三田は文庫本を読んでいる。
「モテる男は辛いですね、岩城さん」
と植野は言った。
「そんなんじゃないよ。誰が考えたんだか知らないけど、ひどい風習だよこれ」
直人は、胸に当てていた手をどけてみせる。制服である詰襟の学生服の、残ったボタンは一つ、上から二つ目のものしかなかった。
なぜそうなのかは誰も知らない、しかし昔からこの高校に伝わる伝統の一つに、在校生が卒業生の学生服のボタンをねだる、というものがある。おそらくボタンの持ち運びしやすさ、服から取り外すのが簡単であることなどが理由と思われるが「密かに好きだった上級生の卒業に際して、下級生がせめてもの勇気を振り絞ってボタンをねだる」というような美しい光景を想像してはいけない。いや、この高校は広いので中にはそういう例もないではないだろうが、バレンタインのチョコレートがそうであるように、美しい風習はすぐ堕する運命にある。なにしろ、今や、約三十パーセントの卒業生男子が、卒業式のあと、校門を出る前にボタンをすべて失うと言われているのだ。つまりこの行事は一、二年生女子にとって「上級生からボタンを剥ぐ競技」というものに変貌を遂げているのだった。直人がそれほど人気があるわけではない。しかし、副会長をやっていて、良かれ悪しかれ名が知られている直人は、下級生の格好の獲物とみなされているのである。
「さっきの子は、誰なの」
いかにもつまらなさそうに三田が聞く。このイベントにおいては、確かに「卒業生の女子」はかやの外になってしまう。そういえば三田さん、なんでここにいるんだろう、と一瞬思った直人は、それでも正直に答えた。
「それが、化学部の後輩の、松戸さんなんだ。高木と一緒に部室に隠れていたら、つかまえにきた」
「そ」
文庫本のページをめくる三田。直人は、今しがた浮かんだ疑問を聞こうかどうしようか悩むが、まあいいかと思って、だらしなく開いた学生服の前をかき合わせる。
「たいへんですね。あとは誰にやられたんですか」
「いやそれが」
質問した植野に直人は答える。
「名前もよく知らないんだ。ええと確か、学園祭の実行委員だった子がいたっけ」
「それじゃ帰り、寒いでしょう」
こくこく、と直人は頷く。まだ購買部やってるのかなあ。
「でも、買ってもまた取られるかもしれないですね」
所在なく、直人は椅子をきい、と鳴らせて立ち上がり、窓の外から校庭を見る。校門のところに数人の女子生徒がいて、道行く卒業生を呼び止めているのが見える。それを除けば見慣れた光景だが、今日でおしまいと思うと、さすがの直人もちょっと胸に迫るものがある。
「岩城君は」
直人が振り返ると、三田が本から顔を上げて、こっちを見ている。
「岩城君は、どこだっけ」
「え、ここだよ」
と答えてから、しまったと思う。
「というのはほんの冗談で、ええと」
直人はへどもどしながら関西のとある大学の名前を挙げた。これは「受験した大学」という意味だろう。
「へえ、あっちに行くんだ」
「行って来たんだよ、先週。原町と一緒に」
まあ、受かるかどうかはわからないけど、と直人は心の中で付け加える。
「三田さんはどこなの」
「ここよ」
と三田がにこっと笑ってそう答えたので、直人はちょっと驚いた。植野がくすくす笑っている。
「いろいろあったねえ」
直人は、ふたたび窓の外を見た。どうもこれは直人の性格によるものとしか思えないのだが、別れる友人よりも、もう見られなくなる景色に深く懐かしさを感じるところがある。これは直人が薄情だというわけではないのだが、友だちは高校生ではなくなるけど、まだいるじゃないか、と思ってしまうのである。クラスの友人や、去年同じクラスでまだ親しい仙石良成や西村聡美のような面々とも、これからも連絡を取り合うことになるだろう、と思っていた。楽観的なのかもしれない。
「たいへんだったけど、今日ほどたいへんな日はなかった気がする」
「おれ、来年この日休んだほうがいいですかねえ」
植野がまぜっかえす。
「そんなわけにはいかんだろ。答辞読まないといけないし」
「そうだ、岩城さん」
「ん、なに」
「そのボタン、おれがもらってあげましょうか」
「植野。まさかお前」
「いやそうじゃなくて、そもそも岩城さんがまだ帰れないのは『下級生を避ける為』でしょう。ボタンがなくなれば、大手を振って帰れるんじゃ」
なるほど、と岩城は手を打った。しかし、ええと、
「しかし、それはなにか寂しい気もするがなあ」
「どうせあれでしょ、ボタンを誰かのために死守しているわけじゃないんでしょ」
「うん、まあ、それは」
直人はしばらく考えたが、確かにその通りだったので、黙って胸のボタンを外した。植野に差し出す。
「じゃ、これでお別れですか」
「ああ、ありがとう。合格したらそのうちまた顔を見せると思うけど、そのときは制服じゃなくてもいいんだろうな」
「どうでしょうね」
「ああ寒い。早く帰ろ。三田さんも、それじゃあね」
直人は挙げた手をぐっぱっ、と広げてみせる。三田は、本から顔を上げると、軽く、うん、と言った。
「良かったんですか」
直人が出て行って、再び二人になった生徒会室で、植野は三田美幸にそう言った。
「うん、いいの。ありがと」
美幸は植野から直人のボタンを受け取ると、そっと胸のポケットにしまって、直人がさっきまでそうしていたように、窓から外を眺めた。卒業式が終わると、季節は春。固かった桜のつぼみがほころび始めるのも、きっともう、あとわずかのことだ。