いいですよ

 仙台駅の思い出にはどうもペンギンの印象が残っている。丸い顔丸い目玉、にっこり笑ったくちばしのない黒いペンギン。JR東日本地域以外に住んでいる人には馴染みがないと思うが、「Suica」という、非接触ICカードを用いた、切符を買わずに電車に乗れるカードのキャラクターである。たまたましばらく仙台を訪問していて駅にも行ったのだが、そこでこのペンギンがついたペナントみたいなものが、とにかくいっぱい飾ってあったのだった。電車に乗れるし、乗り越しても自動精算できるし、おまけに買い物だってできてしまう。非常に便利なので使ってください、というメッセージをたくさん見た。遠くまで来たのに、あんまり旅行した気がしなかったのはきっとあのペンギンのせいである。

 いやペンギンはよろしい。何度目かになるが、Suica、スイカの話である。そもそも、スイカというネーミングには何か今ひとつついていけないものを感じたものだし、自宅最寄駅にスイカ専用改札ができたときにはずいぶん批判的なことをここにも書いた気がするのだが、実は、いつの間にかどちらもなんとも思わなくなってしまって、むしろスイカいいじゃない、などと思っている。慣れというのは恐ろしい。社会は、あるいはこうして勝ち目のない戦争に突入してゆくのかもしれない。

 そんなことはないと思うが、この「切符の親玉」が持っている機能の一つ、これで買い物ができるというのは、けっこう馬鹿にはできない。カード内にあらかじめ積み立てておいたお金を、駅のコンビニなどで支払いに使えるわけだが、普通、まっとうな感覚の持ち主なら、たとえスイカを持っていたとしてもこんなもので買い物するものか、スイカはスイカらしく大人しう切符の代わりをしとったらええんじゃい、と考えると思うがどうだろう。これは「同じパソコンにごた混ぜにファイルを入れておくと情報が流出する」現象として知られる。なるべくリスクは分散し、落としても故障しても切符代だけ、というのが賢い消費者というものである。ところが、いったん電子マネーというもの自体を許容した場合、この電子マネーの一種としてJR東日本が発行するスイカはなかなか便利なところがある。少なくとも、いくらチャージしても電車代としてきっといつかは使い切る、という安心感は他の何にも替えがたいと思うのである。

 加えて、電子マネーというシステム自体が持つ利点が、なんだかんだ言っても確かにある。最近「スイカが使える自動販売機」というものを駅構内で見かけるのだが、ジュースを買う上で、小銭を用意してなければ千円札、使えなかったらどこかで崩してきて、おっとっとお釣りも忘れずに、というのはやっぱり一種のストレスであり、スイカをかざせば買えるというのは否定しがたい魅力があると思うのだ。駅構内のペンギンのペナントを含む、スイカ振興策あれこれには辟易しているところもある私だが、まあ、世の中こっちの方向に進んで行くのだろうなあ、と思っている。そんなに悪い世の中でもあるまい。

 ところで今、私は電車に乗り遅れて、駅のホームにぽつんと一人でいる。次の特急電車は一時間近く先のことであり、たいへんに暇である。暇だけならまだよいが、非常に空腹で、喉も渇いている。特急電車に乗れたら中で弁当でも買おう、と思って急いでホームまで来たので、何も用意していなかったのだ。ホームにはぽつんと小さな、何と言ったらいいか、よくあるキオスクより一回り小さい、物売りのブースがある。もの欲しそうにそこを見に行った私は、おにぎりを販売しているのを見つけた。しかたない。これでも食べるか。

 私は、その売店を見回して、おにぎり一個のほか、ビール一缶とガムを一本手に取った。なんとも寂しい夕食だが、とりあえずはしかたがない。店員の中年の女性は、愛想よく私の買い物を計算して、はい四百五十円、と言った。私は財布を出して、小銭入れを見た。

 ない。

 財布の中にはきっかり二十三円しかなかった。いや、二十三円はぜんぜんきっかりではない。それを言うなら二十三円こっきりしかなかった。私は動じず、札入れを見る。

 ない。

 いや、出張だもの、お金は持っている。しかし、運悪く千円札も、五千円札もなくて、もちろん二千円札もなくって、一万円札しかないのだった。こんなところで一万円札を出すのは、あんまりいいことではない。しかし、ほかにどうしようもないので、仕方なく私は、ごめんなさい一万円札しかない、とおばさんに告げて、一万円札を出した。

 あらーっ、と言ったのは店員さんだった。お釣りがないのよ、とその人は言う。え、あ、ああ、そうですか、と私が返事をすると、おばさんは、今さっき東京に行くっていう人がやっぱり一万円を使ってそれに千円札でお釣りを出したらなくなっちゃって等、よく考えてみると私には何のかかわりもない事情をとうとうと話している。私は考えた。ということは使えるお金はきっかりこっきり二十三円。ガムも、ビールも、ましてやおにぎりもお預けである。私は、出した一万円札を、すごすごとしまおうとした。

「あっ、いいですよ」
と、そこで店員さんが言ったので、私は驚いた。えと、あ、そうか。なあんだ、本当は奥の手、お釣りがあるのか。あるいは、どこかに行って両替してくれるのかな。またはもしかして、おにぎりをおばさんがおごってくれてしまうなんてことは……ないか、とハッピーな私がさまざまに都合のいい想像をして、どう動いていいかわからず、一万円札をしまう手を止めていると、おばさんは違う違う、と言った。私は悟った。

 それは、どうやら、私が持ってきたおにぎりとビールとガムを、元の棚に戻さなくていい、ということらしかった。そういう「いいですよ」だったらしい。つまり、やっぱり一万円はどうにもならないのである。あ、そうですか、と言って、私は結局お札をしまい、今このようにして空虚な体をベンチに沈めて文章を書き綴っている。

 それにしても、考えれば考えるほど、この場合「いいですよ」と言う資格があるのは私であり、あのおばさんではない。そもそも売店には十分なお釣りを用意しておくべきであり、それを切らしたのは向こうのミスである。私がいいですよと言わずに断じて一万円札でおにぎりとビールとガムを購入することを主張した場合、あのおばさんは両替に行く義務があるのではないか。そんなことはないとしても、勘弁してくださいと謝るのは向こうと違うのか。少なくとも、商品をもとの棚に戻す義務は私にはないはずで、だからそこのところを「いいですよ」と許してもらう筋合いなどないのだ。などなど、なにぶんハラペコなので怒りは大きい。どうなんやJR東日本。

 いやでも、あんな売店で一万円札を使おうとするほうが間違っていると言われると、そうかもしれないなあ、と思うのであった。第一今から売店に行き、いいですよと言ったのはこの口か、とあのおばさんのほっぺをつねり上げたりすると、傷害で逮捕されるのは私のほうである。とかくこの世は住み難い。正義はないのか。大西にビールを。と、私はつまり以上のような経験をし、そしてホームを見回してスイカの使える自動販売機を見つけたのであった。

……私は今、駅のホームのベンチに座り、文章を書きながら缶コーヒーを飲んでいる。次の電車までの時間は、あと三八分になった。電子マネー、スイカ、素晴らしい。願わくば、ああいうおばちゃんのいる売店でも、早くスイカが使えるようにして欲しいものである。もしくはあれだ。スイカが使える自動販売機の充実だ。ビールも置いてね、JR東日本。


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