分岐する世界

 始発電車に乗らなければ目的の飛行機に乗れないというのは、ちょっと非道なスケジュールだなと、私はいつも思っている。思ってはいるのだが、では鉄道を恨むべきか航空機を恨むべきか、あるいは出張を命じた社を恨むべきか、考えてみるとどれも等しく恨むべきなので、かえって怒りのベクトルが分散して、結局は特にどの組織も恨むことなく、私は眠い目をこすりつつも従順に支度をしている。なにしろ朝三時半。朝というよりは、どちらかというと「夜中」の続きに思える時間で、私は暗い照明の下、もそもそと着替えを済ませた。気配を感じ、身じろぎした布団の中の妻に、寝てなねてな、と声をかけた。起こしてしまっては、かわいそうだ。

 あとは荷造りだが、荷物といっても、昨日寝る前にまとめたものを、背負ってしまえばおしまいである。私は、それをする前に、思いついて、やはり布団の中にいる、三人の子供たちを順繰りに見て行った。いや、布団の中ではない。布団の上にはちがいないが、掛け布団を、かけてもかけてもはいでしまうのだ。一人など、これは一番上の娘だが、布団の上にすらいない。タタミの上に転がり出て、器用に寝ている。

 見なかったことにして、このまま行ってしまおうかと思ったが、やっぱりそういうわけにもいかない。私は手足を引っ張って寝ている子供を動かし、おおむね平行に子供たちを並べ直すと、おなかの上に布団を置いて行った。こんなことをされても目を覚まさないのだから、子供はすごいと思う。私は子供たちの寝顔を見て、それから、柔らかそうなほっぺをちょっと触った。

 生きて戻れるだろうか。出張。

 などと書くと、どこに出張に行くのかと思われてしまうが、なんのことはない九州である。イラクでもアフガニスタンでもない。ただ、飛行機に乗るたびに、ちょっとした不安が、胸をよぎるのは確かなのである。普段、自転車で街を走っていても、電車に乗っていても、いや、家でお茶を飲んでいるときでも、ある程度の「死の危険」というものは常に存在している。我々はすべていつか死ぬのであって、しかもその死に方というのは実にいろいろあるのであって、だからそれは当たり前のことなのだが、どういうわけか、飛行機だけは別種の怖さがある気がするのだ。論理的なものではない。乗りなれていないからかもしれない。よくわからない。

 よく考えるのは、量子力学的な、多世界解釈とかよばれている、一つの考え方だ。我々の世界は、ある種の量子力学的な過程のたび、常に、また無数に分岐している。分岐した二つの世界には、それぞれに地球があって、私がいて、あなたがいて、その他すべて同じなのだが、ある粒子のある種の配置だけが異なっている。完全に分岐したあとは別々の世界となって、お互いに交渉することはない。交渉しないのだからあるともないとも言えないし、これが量子力学の解釈において支配的な考え方というわけでもないと思うが、それでもよく考えてしまうのである。

 というのはつまり、私がこれから飛行機に乗って、死ぬ世界と、そうでない世界があるに違いない、ということだ。

 ある、かなり低い確率で、私は死ぬだろう。いや、たいていの場合、私の乗った飛行機は無事に離陸し無事に着陸して、私は今日と変わらない明日を送り、のそのそと仕事をしたりお得意先に叱られたり焼酎を飲んだりする。しかし、ある確率で、それは耐用年数がまだまだあるはずの部品が突然壊れたり、落雷や突風に遭ったり、電気的なノイズによってコンピューターが誤作動をしたりといったかたちで、なにかが起こる。それは本当にわずかな確率で起こる事故に違いないが、量子力学的な粒子のあり得る振る舞いの如何によっては、そして世界の分岐のしかたによっては、起こらない事故ではない。量子力学的な世界の分岐のどれかでは、確かに起こっていることなのだ。

 私は思う。その世界では、明日帰ってくる私はいない。子供たちはどう思うだろう。妻は泣くに違いない。ただ、世界の数が、それほどたくさんはないに違いないし、また私がその世界を目撃することがない、というのは救いだが、その世界の子供たちに、この私の手のぬくもりが、少しでも記憶として残らないか。父親が最後に出かけた朝に、頬をなでてくれた父のことが、と、私はそんなことを思って、子供たちの頬をもう一度、一通りなでた。

 私は鞄を背負う。まあ、そんなことを言えば、ふだんの出勤のたびに、これをやらないといけなくなるのだが。さっき書いたように、人生には危険がいろいろあり、それは飛行機に限った話ではないから。ともあれ、分岐し、やせ細ってゆく一方の私の世界ではない、別の世界においても、そのできるだけ多くで、子供たちがすくすくと元気に育つようにと、私は最後に、玄関の目立つところに飾ってある、偉大なる同志にして人民英雄の写真に手を合わせた。荷物を背負い直して、ドアを開ける。夜明けの空の下、日本人民共和国の一日が、また始まろうとしていた。


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