いまやダイエットといえばキャベツダイエットである。などと一部にしかわからない話題を書いてはいけないのだが、キャベツのせいなのかどうなのか、最近、街を歩いていて、あまり太った人を見かけなくなった気がするのだ。いや、キャベツというのは冗談で、またこれはあくまで主観的な話で、裏づけとなるデータもなんにもなくて申し訳ないのだが、はっとするほどすらっとした、スタイルのいい人というのを、かなり頻繁に見かけるようになってきた気がするのである。そういう人を見かけるたびに、これは少し前までごくわずかな人しか望んでも得られなかったスマートさだ、という気がしているのだが、どうなのだろう。
私の漠然とした印象が何かの意味を持つとしてだが、これはもしかして、この日本という地域、今という時代においては、痩せようと決意すれば誰でも痩せられる、ということを意味しているのではないか。キャベツをはじめとする巷間伝えられるところのさまざまなダイエット法やダイエット食は、中にはあまり効果のないものも混ざっているかもしれないが、全体として確かに効果がある。大多数の人間にとって食べたい運動したくないという欲求を無理なく抑えて理想の体型を手に入れられる、そういうことなのではないか。少なくとも二十年前の人々に比べて今の人間はずいぶん楽に(あまり我慢しないで)スリムな体を手に入れているという、そんな気がするのだ。かくいう私もあるとき十八キロを一気に痩せて標準体重にまで持ってきた過去があるので(しかもそんなに苦しくなかった)、あながち間違いでもないと思うのである。
と、嘘か本当かわからない話をしたところで、さて、そういうダイエットを扱ったテレビ番組を見ていて、「体脂肪率も45%から22%に、なんと半分以下になった」という表現を耳にした。ダイエットに成功して、体重も減ったが体脂肪率もすごく減った、ということが言いたいわけである。確かにかなりのダイエットだが、それはそれとして、上のような表現に出会うと、なにか気持ち悪さというか、どうにも悩ましい気がいつもしている。というのも、パーセントで表す数値を「2倍」とか「3倍」と言ってはいけないと、直感的にそう考えてしまうのだ。
とはいうものの、具体的になにがどう変なのか、あらためて考えるとわからない。たとえば、内閣支持率があるとき15%だったものが次の調査で30%に増えた。数字だけ見れば2倍であるが、そういうふうに表現してはいけないのだろうか。このへん、ニュースなどでは慎重に「15ポイント上昇」というふうに言っている場合が多いのだが、いかにも「2倍」と言ってしまいそうである。調査が正しいとすれば、街を歩いている人をつかまえて質問した場合、以前の2倍の頻度で「内閣を支持している」という人に出会うのは確かで、ではこれを「2倍」と言うのは正しいではないかといわれると、そのようにも思えてくるのだ。
一つには、割合の数字が大きくなってくるとちょっと変なことになってくる、ということは言える。支持率なら「10%が20%に増えた」と「80%が90%に増えた」で、二つの調査の間に考えを変えた人の数は同じで全体の5%なのに、前者は2倍の増加で、後者は12.5%の伸びだという、そういう差ができる。これはあまり意味のあることではない。支持率のように普通パーセントで表される、支持者不支持者無回答その他あれこれ合計すれば百になる数字の場合、重要なのは「支持者に出会う頻度」ではなく「考えを変えた人の絶対数」であって、そっちにのっとった表現をすべきだ。とはいえ、頻度と絶対数、どちらが重要かというのは考え方に過ぎず、今は前者の考え方をしたいのだ、といわれると、それはそれで意味のあることにも思えてきて腰が定まらない。
以前にも触れたが、病気にかかるリスクの場合は、これを「リスクが2倍に増加した」というような表現をするのはわかりにくくて危険なことである。これは病気の場合かかりやすさにおいてピンからキリまでいろんなものがあるからで、たとえば一万人に一人くらいしかかからない病気になるリスクが2倍になっても、その代償として非常にかかりやすい病気になる割合が一割ほど減ったとしたら、そのほうがいいことのはずだ。だからこれはやはり「一万人に一人の割合で発病するリスクが一万人に二人に増える」というふうに頻度で表現すべきだ。体脂肪率の減少も、だからたぶん率の変化ではなく、減った脂肪とそれ以外の重量を示すほうが意味があるのだろう。
というふうに頻度で表すのはいいことだが、ところで「一万人に1人」とか「百人に3人」という場合はいいとして「10人に1人」くらいの数字を頻度で表現する場合、本当に母数が10でいいのかどうか、そのへんどう考えればよいのだろう。たとえば「13%」という数字を「百人に13人」と書くのはいいとして「10人に1人」と書いていいか、ということである。13%が10%と20%のどちらに近いかというと10%なので「10人に2人」よりは「10人に1人」のほうがいいに決まっているが、100割る13は7.7くらいなので、正確には「約7.7人に1人」なのである。これを、まあ細かいことを言わないで「8人に1人」として、これは「10人に1人」よりも親切なのか不親切なのか。どっちがわかりやすいのかは一考に価する。
まず「13人につき5人だった率が7人につき3人に増えます」という表現が、全く不適当であることだけはなんとなくわかる。母数をいいかげんに選ぶと、わけがわからない。しかし単独の数字をもってきて「8人に1人」と「10人に1人」ではどっちが胸に迫るかというと、やっぱり8人のほうではないかと思うのだ。私の場合「10人に1人」と言われると、10人の捕虜がずらっと壁際に並ばされていて、少し離れて立った将校が合図をすると、ずばん、と鉄砲の音がして一人が倒れる、という図を思い浮かべる。私の一見温和そうな外面の中に潜むどろどろと黒く粘度のあるなにかをうかがわせる殺伐としたイメージだが、これが「8人に1人」だとどうなるかというと、ケーキを半分に切り、また半分に切り、その次また半分に切って、その一切れという、より明るい(というのは銃殺云々ではなく、ぱっと思い浮かべやすくわかりやすい)イメージがあるからだ。「10」と「8」の数字としてのわかりやすさの差である。10がちょっとやそっと増減しても捕虜の数が増減するだけであまり印象が変わらないのに比べ、8分の1は手の届く数字として明らかなイメージがある。
とはいえ母数が「7」や「9」や「11」では捕虜に代わるイメージがあるわけではないので(だから「10人に1人」で表現したほうがいいように思えるので)、いつでも「10」ではいけないのではないか、という問題提起は、8の場合だけ通用する、実に狭いことを言っているに過ぎないのかもしれない。一つ言えることは「あなたの政策は国民の10人に1人しか支持してないんですよ」と言われて、「いや、そんなに少ないはずはない、8人に1人はいるはずだ」などと細かいことを言い返した場合、そのせっかくの1人の支持も失ってしまうのではないかということである。