コンビニやスーパーなどで買ったものを、入れるための袋をもわらずに自分で持って行くという、いわゆる「マイバッグ運動」に関して、普通言われることは環境問題である。レジ袋を一枚作るのにどれだけ石油が必要だとか、日本全国で一年間にこれこれこのくらいの二酸化炭素が放出されているとか、そういうことだが、おそらくそれだけが目的ではない。ゴミとして捨てられたあとのレジ袋というものは、非常にやっかいな存在である、ということが意識にあるのではないだろうか。プラスチックなのでいつまでも環境に残るとか、野生生物が食べて死ぬとか、そういうことを防ぎたい気持ちがあると思うのだ。このあたりを深く考えてみたことがないとしても、ふだん、レジ袋がゴミとして捨てられて、そのへんにふわふわと漂っている様子というものは、みんな一度は見て知っている。むしろ、あれはなんとなくよくないものだというコンセンサスがあるからこそ、マイバッグ運動がここまで普及したのだろう。
似たようなことは「ペットボトルのキャップを集めてワクチンを送ろう」という運動についても言える。「缶ジュースのプルタブを集めて車いすを贈ろう」というのが昔あったことを思い出すが、聞いてみるとペットボトルキャップ数千個で二十円くらいの寄付金になり、これが一人分のワクチンになると言われており、これはなんというかものすごい交換比率である。同じボランティアをするにしてももっと効率を考えて、たとえばペットボトル本体を集めたほうがいいのではないかと思えるし、一万個を集める労(ペットボトルキャップ1つを拾って袋につめるのに1秒かかるとして、三時間弱)で他のアルバイトをし、その収益から百円を寄付したほうが生産的であると思えてならない。しかしこれも「ペットボトルのキャップがリサイクルの邪魔になっている」あるいは「ペットボトルのキャップがよく捨てられている」という意識が根底にあって、キャップを集めてきて捨てる、それがいくらかの他人の役に立つならばなおよい、というところに存在しているボランティアなのではないかと思える。
つまり、これは「理由が二つあると人は動く」ということではないか。ある運動を普及したいとして、チラシなどに書くとする。このときに、
納豆が安いので買ってください。
と書くと、いかにも迫力がない。しかしながら、
納豆が安いので買ってください。
イソフラボンも入っていて健康にいいです。
と書いてあるといかにも買う気が湧いてくる、と、つまりそういうことである。あるいは、
お正月なんだから家の前を掃除してください。
などと言われるとたちまちやる気が失せてしまうが、
お正月なんだから家の前を掃除してください。
その代わりに今晩はビールを飲んでもいいです。
と言われるとむきむきとやる気が湧いてくるではないか。もちろん、理由が一つであってもやらないといけないことはやらないといけないし、理由がいくつあってもそれぞれが大したことがない理由なら重大に扱う必要はない。イソフラボンというのもいまどきちょっとどうかと思うし第三のビールだって飲めばけっこうおいしいのだが、言いたいことはそれではなく、どうもこの場合、一つひとつの重大性よりも個数がものをいう気がするのだ。箇条書きでたくさんあると目に留まりやすいし、そのうち一つだけを重要視している人にも訴えかけやすい。あるいは、必要ないと言い切るために全部を論破する必要があるために疲れる。これである。数自体が持つ力があるのだ。さらに例を挙げよう。
腹が立っていたのでやった。
と言われると、この世の中はそして日本はどうなってしまうのか、と悩んでしまうが、
体の調子が悪く気が立っていて、
帽子の色が気にいらなかったし、
席をゆずってもらえなかったうえに、
話しかけたのに無視され、そして、
声を聴いていると耳がきんきんしてならず、くわえて、
扉を開けっぱなしにされたのでやった。
といわれると、何をやったのかはよくわからないが、やったのはしかたがなかったなと思えてくる。一つひとつはしょうもない理由なのだが、とにかくたくさん理由を書くといいらしいのだ。ええとほかには、たとえば家の周辺の掃除をしていると、タバコの吸い殻が気になる。通りすがりの人が歩きタバコをして捨てているわけだが、これをなんとかするために「販売時にタバコ一本あたり十円の保証金を上乗せして、吸い殻を返却すればそれが戻ってくる」というシステムの導入を主張したい、とする。たとえば、マイクロチップかなにかをフィルタのところに載せておいて、これをフィルタごと回収してリサイクルすればこれは現実に可能だと思うし、これをやりさえすれば日本からタバコの吸い殻は一掃されるに違いないが、異論も多そうである。そこで理由をいっぱい書く。書いてみよう。
タバコは健康に悪いので値上げすると医療費も安くなる(値上げではないが)。
タバコの吸い殻の管理が厳しくなるため、誤って食べる野生動物の命が助かる。
同様に、タバコの吸い殻を幼児が口にする危険が減る。
タバコの吸い殻回収ステーションとして街のタバコ屋の存在意義が増える。
携帯灰皿の普及率がうんと増して新たな需要が創出される。
ポイ捨てが減り火のついた吸い殻を原因とした火災の危険が減る。
同様に火のついた吸い殻を原因としたやけどの危険が減る。
吸い殻の溜まった灰皿を掃除する労力が不要になり負担が減る。
ああもうそうしようすぐにやろうお願いします、という気になってくるではないか。むしろ、なぜやっていないのかと政府の無策を責めたくなってくる。わかったか。どうだ。さっさとやれ、ねじれている場合か。と、もちろん、上の箇条書きと同じくらい簡単に「吸い殻に預かり金などを設定しないほうがいい理由」というのもたくさん考えつくわけで、つまりこれは、いくらたくさん理由が挙げられているからといって、その数に負けてはいけない、ということなのだろう。
つまりだ。理由が百も挙げられていると、一見これを論破するのは不可能に思える。しかし考えてみれば百のつまらない理由よりも一つの重大な理由のほうが大切なこともある。この施策を採用すれば世の中全体の幸福度が増す、その証明責任は主張するがわにあるのであり、それら百もある主張なりデメリットなりをすべて数値化して表にして、合計して「国民一人当たり一年あたり差し引き五千円の得になる」などとわかりやすく示して見せられるまでは、安易に同意するべきではないのだ。そういうことだと思う。また、付け足して言えば、いまいち説得力のない主張に二つ目の理由を探す手法にも気をつける必要があるということなのだろう。
ゲームに熱中して返事もしない我が子には困ったものだ。
だけだと、ああ困った、困ったよねという感じだが。
ゲームに熱中して返事もしない我が子には困ったものだ。
脳科学の結論によればゲームばっかりやっていると馬鹿になるので法律で禁止すべきだ。
というあれである。実に怖い。
さて、このサイトの更新が特に本年後半、やけに遅かった理由だが、
いろいろ忙しかった。
はっ、一つしかないが、ええと、だから一つの重大な理由のほうが大事なことだってあるじゃないか。まったく説得力がない気がするが、えー、来年はもう少しがんばります。