「バスフィッシング」というものがかつてあった。むかしそれについてここに何か書いたので、あったのは確かだ。「なくなった」という話を聞かないので、もしかしたら今もあるのかもしれないが、周囲では誰もやっていないので、なんとなくもうないという気もする。とはいえ、格言にいわく、この現代の日本においては何事も永遠には栄えず、何事も完全には滅びないのだから、まだどこかにはあるのかもしれない。
と、へんなまとめかたをしたところで、バスフィッシングの話である。バスフィッシングとは何か。要するに魚を釣り竿で釣る、サカナツリ遊びである。魚ならなんでもよいわけではない。ここでブラックバスという、ちょっとお茶目で光るものならスプーンでも飛び付くサカナが登場する。外国からやってきた陽気な淡水魚であるが、このブラックバスなるサカナをあらかじめ沼やら池やら湖やらに放しておき、スプーンに毛が生えたような道具でこれを釣り上げる。そういうあそびである。あそびだから釣ったバスは食べない。よくしたものでバスというサカナはたべてもうまくないようにできている。だから釣ったあとは元通り放すのだ。リサイクル精神である。
などと書きながらかなり恐ろしくなったが、もちろんかなり前からこれは環境に対する重大な破壊行為、あるいは人種差別や奴隷制、乗り合いバスでタバコを吸うことに近い蛮行の一つとされていて、今これ(バスの放流)をやれば何かしらの法律でこてんぱんに罰せられることになっているはずである。ただ破壊行為の常として、一般に取り返しはつかない。このサカナツリ遊びをお近くの水場でもやってみたい、という釣り人の期待にこたえるかたちで放流されたバスたちは、今もあちこちの沼やら池やら湖にいて、もとからその沼やら池やら湖にいるところのいたいけな在来種とスプーンを食べ尽くしているはずである。
恐怖とともに思うのだが、こうしたバスの「光るものなら何でも食べる」という無邪気さはそもそも「自然界にある光るものは大抵サカナである」というバスにとっての観察事実から来ている。じつは個々のバスは観察などしておらず、他のもっと慎重な仲間よりも何でも飛び付く悪く言えば軽はずみなバスが腹一杯食べられることが多く、そのために獰猛で悪く言えば細かいことを考えないバスはより多くの子バスを残し、この子バスに親バスのまっしぐらで悪く言えば頭の弱い気質を受け継がせてきた。こうしてやがて池にいる全部のバスが悪く言えばバカばっかりになり、今釣り人に毛だらけのスプーンで釣り上げられる憂き目に遭っているわけである。
ますます怖い話になってきたが、もちろんこれにはある前提がある。すなわち「人間がスプーンみたいな道具で、池の中のバスをバカな順に片っ端から釣り上げて痛め付ける」などということがない条件において、集団としてのバスは軽はずみでいられるのだ。条件が変わるとこれはあっという間に変わりうる。有史以来人間がいなかったような孤島に行くと、そこにいる鳥はまったく人間を恐れなかったりするが、他方、ふつうの島、人間のいる島にいる鳥などの野生動物は人間を怖がって決して近寄っては来ない。鳥にとって人間を恐れ逃げることには一定のコスト(たとえば餌を取り逃がすリスクなど)が必要なのだが、そうしなければ生き残れない場合、動物はしぶしぶながら賢くなり、人を恐れるようになり、用心深くなるのである。
もし仮に。この世にブラックバスの天国のような場所があり、そこでは人間が自然を相手に知恵比べなどせず、バスをいつまでも天然なまま放っておいてうじゃうじゃと繁殖させてあげられる、そういう場所であったとして、そこから常に日本の湖沼に向けて新しいバスが流れ込んでくる、そういう状況であれば別である。しかし、逆にもしもこれから先。関係者の努力が実を結び、新しいバスがいっさい外から持ち込まれることがないとしたらどうだろう。日本においてブラックバスが子を産みその子が孫を生みして代替わりしてゆくうちに、バスはちょっとずつ変わってゆくはずである。特に、バスの集団が大きな群れをつくって大きな湖に住んでいるのではなく、細切れになってあちこちの池に住んでいて、互いに行き来することがない、そういう状態がもっとも進化には適しており、変化は急である。すなわちこの日本においては、ほんの何代かのうちにバスは進化を遂げるはずだ。
賢いバスは単なる食事用スプーンに騙されたりしない。そうなると釣り人としてはアソビとして面白くないので、ますます魚に似たすごいルアー(疑似餌)を使うようになる。そうするとどうなるか。ちょっとやそっとキャッチアンドリリースをやっても追いつかない。釣り上げられた魚は傷つくことによって子供を残しにくくなり、全体としてバスはさらに目利きになる。というよりも、ルアーに騙されなかったバスがより多くの子供を残せるので、ルアーなぞに騙されないするどい感覚をしたバスが集団の中にどんどん増えてゆくわけである。もちろんそれでは面白くないので釣り人はなにくそとさらにすごいルアーを使うはずである。そうするとバスがまた賢くなる。さすればルアーがすごくなる。バス、ルアー。バスルアー。バルー。バー。釣り人とバスの軍拡競争はこうして続いてゆき、進化は急速に進んでゆくのである。
どうなるのか。バスはおとなしくなるだろう。日本においてはブラックバスは魚なんか食べなくなって、草でも食べているようになる。その前にバスフィッシング自体があそびとして面白くなくなり、みんな釣りをやめてしまうと思うかもしれないが、さっき書いたように日本においては何事も完全には滅ばないので釣り人も滅ばない。究極的には釣り人の装備はサカナどころか三歳以下の子供ならあっさり騙されるくらいリアルなものになり、いやしくも他の魚を常食とする生き物であれば決して逃れようがない完璧なものになるはずである。そうするとバスの生き残る道は「サカナ食べるのやめる」しかない。そう、草食化である。草を食べるのだ。バスはですね、あなた、草を食べるようになります。きっとそうなります。
という今回の結論はあんまりにも強引だが、ここから日本の若者の草食化と呼ばれる現象について何かを言うことができるかもしれない。目の前の生物多様性問題から目を背けてこんなむちゃな仮定に基づいてものを言うことはたいへんよくないのでそれは厳に慎まねばならないが、一つ言えることとして、この現代の日本においては何事も永遠には栄えず、何事も完全には滅びない、というのは本当ではないかと思う。バスもしかり、釣り人もしかり、若者もしかりである。