指輪は摩耗する

 これは一般的なイメージとして、「命」は儚く一瞬の存在で、それに比べて「物」は時間が経過しても変化しない、永遠不滅の存在である。たとえば街道沿いにいつまでも残っている石碑。そこに文字を刻み、後の世に何かを残したくて石碑として建てた人たちはもういない。出土した土器のかけらを焼いた人は、確かにかつてここに立っていて、泣いたり笑ったりして自分の人生を生きたはずだが、それがどのような人々だったのか、何が好きで何を嬉しいと思って暮らしていたのか、それを私たちが窺い知ることはできない。

 しかしそうだろうか。確かに人間はとても永遠の存在とは言えないが、私もこれでけっこう長く生きてきて、身の回りのあれやこれやを考えると、実は、人間の一生より長持ちするものはそう多くはないことがだんだんわかってくる。家電もコンピュータも劣化する。それもけっこう、びっくりするくらい短時間でだめになる。バッテリーはへたり、モーターは摩耗して、ディスクドライブのような可動部はどこかが壊れて動かなくなり、金属は傷つきプラスチックは割れ、一度そうなったら決して元に戻らない。それになんだ、外装がなんだかよくわからないがベタベタになるやつがあってあれは本当に困る。ポストアポカリプス、終末ものと言われる、大きな戦争かなにかで文明が消滅したあとの世界を扱った物語で、人間の残した機械だけがいつまでも動き続けている描写がよくあるが、少なくとも現状、そういったことはあまり起きないのではないだろうか。明らかに機械のほうが人間より寿命が短いからだ。終末の崩壊した街には交換部品もなく、外装がベタベタになったロボットが朽ちて倒れているはずである。

 私の個人史としてもそうである。たとえば三十年と少し前、私が一人暮らしを始めた頃に買ったもので、今まで使い続けられているものは本当におそらく何もない。あの頃使っていたテレビもワープロもビデオデッキもゲーム機もラジカセも腕時計も、あんなにいろいろあったのに、それぞれのあるとき、どこかで私の人生からこぼれ落ちてなくなって、いま私の手元には何一つ残っていないようだ。二十数年まえ、私が結婚したときを起点としても、家電では(妻の嫁入り道具だった)古くてガタガタになったこたつが一台、これがすべてではないかと思う。戦争があったわけでも夜逃げしたわけでもないのに、モノというのはそれくらい一時的なもので、次々と失われる。あとは掛け時計一つ残っていないのではないか。

 いや一つあった。家電ではないが、結婚指輪である。これを私は結婚したときに買って、左手の薬指にはめて、そのままずっと生活しているのだった。こんな装飾品がいったい自分の身に合うものか、どこかでふと失くしてしまうのではないか、初めて指輪というものを身につけることになった私は最初ずいぶん不安だったが、どうも私が普通に生活している限りにおいて、その態度において、左手の薬指にある装飾のない指輪は簡単に壊れたりなくなったりするものではないようだ。明らかに変形しているし傷つき摩耗もしているが、まだ立派に左手に残っている。たぶんこのまま私がいなくなるまで、ずっとそこにあると思う。

 指輪は、よく考えてみると、他の身の回りのものに比べてもわりと特別な位置にある。私がいるところに常にいて、身につけて持ち運んで、家でも会社でも、旅行先でも帰省先でも、歩いているときも走っているときも、風呂でも布団でも、いつでも一緒にいる。モノのはかなさということを考えないとしても、こんなものはちょっと他にはない。仮に今、超高感度の元素分析装置があって丁寧にチェックしたら、指輪の元素(メーカーが嘘をついていなければ白金)が、私が歩んできた道のほとんどすべてに、ぽつりぽつりと、少しずつこすり落とされて残っているのが観測されると思われる。

 これは面白いイメージなので、もっとよく考えてみよう。まず、指輪がどれだけの原子数からできているのかを計算しよう。指輪の重さは今量ったら3グラムだった。白金の原子量は195なので、指輪は0.015モルの白金原子からできていることになる。つまり、原子数でいうと9×10^21の白金原子である。ふうん、というところだろう。原子って多いな。実に多いな。ふうん。

 私はこの指輪を23年間身に付けている。その間、指輪が少しずつ摩耗していったが、質量としてどのくらい減少したかはよくわからない。かなり傷ついているので、まったくの仮定として、最初のぴかぴかだった頃から23年間でその質量の0.01%が失われているとしよう。これはわりと保守的な見積もりだという気がする。重さで言うと0.3マイクログラム、白金の密度から体積を計算すると、一辺の長さでいえば0.2mmの立方体が失われたことになる。全部合わせて小さな傷ひとつくらいだろう。わからないが、ここでは仮にそう考えてみる。

 この摩耗し失われた原子の数は、同様に計算して9×10^17個である。またしても「ふうん」というところだが、これを私がこの指輪と過ごした日数(23年)で割ってみるとどうなるか。一日あたりどれだけの原子が指輪から削られてしまうかがこれで求められるが、それは1×10^14個となる。100兆個だ。ちょっと日常的な話になってきた。朝起きて、家に帰ってくるまであっちに行ったりこっちに行ったりドアノブや手すりをつかんだり手を洗ったりするたびに指輪はちょっとずつ摩耗していると思われるが、平均して一日につき100兆個の原子が指輪からはがれてそのあたりにばらまかれている計算になる。傷つき方はぶつけたり擦り付けたりしたときには激しく、逆にふつうに歩いているだけのときなどはほとんど何も起きていないと想像はつくが、あえて1秒あたりに均して計算すると毎秒13億個と言えばいいだろうか。これはちょっととんでもないことだ。だいたいこの私の小市民的な生活の毎秒のできごとに億とか10億とかがやってくること自体とんでもないことであるが、こうしている間にも左手から毎秒13億個の白金原子が失われてゆくと考えると、モノというものがいかにはかないものか、何かが少し理解できたような気もする。指輪全体の原子数からみると、やっぱり大したことはないのだろうけど。

 つまり原子というのはそれだけ多くて、すべての物体がそのきめの細かい、ありえないほど小さなブロックでできているということだろう。私たちは「生物」というとくべつな物体として、周囲の削れてゆき壊れてゆくモノたちを尻目に、自分自身を少しずつ取り替えながら、流れの中につかの間あらわれた小さな秩序として、ここに生きて、やがて去ってゆく。私がいなくなったときそこに何かが、私が考えて、作ったものが残るだろうか。残ればいいなと思う。そんなに長くなくても、たくさんでなくてもいいから。


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