かつて「まんが日本昔ばなし」という番組のエンディングテーマで「にんげんっていいな」という歌があった。この番組に、これ以外のエンディングがないわけではなく、私が主に見ていたのはこれより前の、別の音楽だったようなのだが、どうもこれしか記憶にない。根拠のないことを言うようだが、そういう人は多いのではないか。
よく知られているように、歌は、くまの子やもぐらの視点から描かれる。くまの子は、人間の子供たちがかくれんぼで遊んでいるところを物陰から見ている。「お尻を出した子が一等賞である」という不可解な下りもあるが、ともあれ夕方になり、子供たちは各自の家に戻ってゆく。くまの子は考える。子供たちの家ではおいしいおやつにほかほかのご飯が子供を待っているだろう。人間はいいな。うらやましいな。僕も家に帰ろう、と。二番のもぐらの感想もほぼ同じである。要するに、人間の子にはお風呂があり、暖かいふとんが待っている。もぐらにはそのようなものはない。人間はいいなというものである。
ここで私がどうしても考えてしまうのは「熊たちの知能は実際どの程度のなのか」である。もちろん現実には、熊の子が人間を見てうらやましがるということはない。仮に熊が人里に降りてきて子供たちの遊びを目にすることがあったとして(これ自体現実にはかなりの事件ではあるが)、かくれんぼのゲームを理解することはないし、人間の子供を待っている食事について思い巡らすこともないだろう。人間っていいなという感想を抱いたりはしない。くまだからそんなものである。だが、歌はくまの子に語らせる。人間の子供たちよ、あなたたちの生活はすばらしいものなのですよと。
いや言うまでもない、歌、物語、詩とは、もともとそういうものだ。このくまの子やもぐらは、当然だが現実の熊ないしモグラではない。まず人語を解する。子供達の遊びを理解し、彼らの境遇も完全に理解している。擬人化された動物であると言える。ももたろうの犬が「ももたろうさん、きびだんごをください」と言ってきたとして、私たちはここでにわかに超自然的な出来事が起きたとはみなさない。ももたろうの世界における犬はしゃべるのだ、この世界の犬には人間なみの知能があり、インスタントな主従関係まで結んでしまい、鬼退治においての戦力の一翼を担うこともできてしまうのだと、そう自然に理解する。くまの子も、もぐらも、この歌においては物語の都合上、人間なみの知能と人語を解する能力を持たされていると私たちは考え、納得する。
そして、今回のこの文章では、以上の事情は察した上で、それは飲み込んだ上で、その上で変なところがあると言いたいのだ。さよう、この世界のくまは人間のように考える。人間のように想像を巡らせ、人間をうらやましがる高度な精神機能を持たされている。ところがその一方で「人間はいいな」というくらいなのであるから、この世界のくまやもぐらには、あるというかれらの「おうち」には、おいしいおやつも、ほかほかご飯も、はたまたぽちゃぽちゃお風呂もあったかい布団も、何一つ与えられていないと考えられるのである。
物語のために持たされた高い知能で、しかし現実の熊たちに近い生活を送っていると思われるくまの子は、かれらのねぐら(木の上?ちょっとした地面のくぼみ?)で何を考えるだろう。ここには何もない。自分たちの不遇を嘆き、なぜ自分たちの生活が人間のようではないのか、と考えるのではないか。なにしろ、歌の世界が成立するために、かれらは人間のように感じ、人間のように考える能力だけは持たされているのだ。それを現実化するために自分たちの文明を築く、その能力だけがなぜかない。その微妙な線の上に、リアリティレベルが設定されていて、自分たちではどうしようもない。
かれらは自分たちが囚われた物語の世界を憎むだろう。自分たちにも、安全で快適で、豊かな生活が欲しい。さもなくば、それを理解するだけの知能をそもそも与えられるべきではなかったと。このような世界は不公平で、間違っている。くまは一人やるせない思いを抱き、頭から地面に一回転、転がってみたかもしれない。まるでなにかの儀式のように。そうすればこの世界のことわりが、なにもかもが反転するかもしれないという、真摯な祈りのように。そして当然、そうはならなかった悲しみを抱いて、せめてかれらにできる最後の意思表示として、はるか歌の世界の外、テレビの前の私たちに、バイバイバイ、と手を振るのだ。