大西科学ロゴ

大西科学の設立経緯

上東条天文観測所

 大西科学(上東条科学研究所)の母体となった、上東条天文観測所は、明治三九年に創始者大西観月によって上東条村(現在の兵庫県加東郡)に設立されました。当初は観月の趣味でありました天文観測を中心とした個人的な研究を行う天体観測所として出発いたしましたが、やがて天体望遠鏡の製造販売、光学製品一般の受注製作を開始し、おりからのハレー彗星最接近(明治四三年)による天体観測熱の高まりによって財をなした観月は、さらに科学研究材料一般の製造販売および基礎科学研究への事業拡大を行い、大正八年、同地に有限会社大西科学を設立するに至りました。大西科学は、観月の広い交友関係と、その優れた基礎技術によって大学、軍部研究所および私企業への納入を行う研究材料製造販売業者として成功をおさめました。観月の残した社是「科学のみが人類を幸福にする」は、現在の大西科学にも受け継がれています。

昭和初期

 昭和初期の大西科学は、日本が帝国主義国家へと傾斜するに伴って、単なる研究用器材の納入から、軍需物資の製造や、軍事研究を行う軍需事業へとその活動の主体を移してゆきました。観月のあとを継いだ二代目、大西幸一は、大西科学から研究部門として「上東条科学研究所」を分離独立、また発動機生産部門として「大西発動機」を神戸に設立しました。大西発動機は、自動車、オートバイの生産から、太平洋戦争末期には航空機用エンジンのライセンス生産まで幅広い生産活動を行っています。上東条科学研究所は、従来通りの基礎科学の研究活動を行っていましたが、時勢から軍事研究にも無関心ではいられず、潜水艦用の推進プロペラ「大西式反転プロペラ」や艦艇用の射撃統制装置「大西式高精度射撃指示盤」を生み出しています。これら部門を分離された大西科学は、従来通りの研究器材製造業務を続けておりましたが、やがて太平洋戦争の勃発、戦局の悪化から業務のほとんどを停止、戦争末期には活動休眠状態にありました。

戦後復興期

 戦後、神戸−大阪大空襲によって死亡した幸一の後をついだ三代目、大西遥の最初の仕事は、焼け残った資産をまとめて整理を行うことでした。軍需産業に携わった関係から大西発動機は徹底的に解体されましたし、上東条科学研究所もその活動をGHQによって停止されました。実質的に研究所としての大西科学はこのとき、いったんその歴史の幕を閉じたと言えます。遥は、研究への道を停止された上東条科学研究所を真空管の製造業として再出発させました。その規模は従業員二万名を数えた戦前戦中から大幅に縮小し、町工場程度のものでしたが、新生「上東科学」の真空管は、母体である研究所の技術を生かした高精度の真空管として評価を受け、微力ながら戦後の復興の一翼を担うとともに、大西科学を近代的な精密機器製造業者として成長させるきっかけを与えるものでした。

研究所としての業務の再開

 科学研究所としての大西科学が政府の補助を得て再びその活動を再開したのは、昭和三五年のことです。真空管から精密機器一般に業務を拡大するに当たって社名を「大西科学」に戻していた旧上東科学から、元の社名と研究者を引き継いだ「上東条科学研究所」は、遥の弟である大西航を所長に迎え、純粋科学研究を行う研究所として活動を再開しました。上東条科学研究所は、物理、化学から医学薬学にわたる広範囲な研究を行う独立した研究所として活動を行いましたが、企業として自活することを目標に設立されたため、互いの活動範囲が重複する面から大西科学との境界はややあいまいになり、昭和四六年に両者は合併いたしました。

さらなる発展をもとめて

 ふたたび一つになった大西科学は、大は航空機、宇宙機用の発動機部品開発製造から、小はマイクロプロセッサの開発まで、精密機械・金属材料・電子工業の広い分野にわたって、独自の高度な技術を生かして活躍を続けています。一方、大西科学の一部門として存続することになった上東条科学研究所では、原子核、物性の物理分野における基礎研究を行うことで大西科学の技術開発の根幹を形成するとともに、人類全体の科学技術の発展に寄与することを目的として、ユニークな研究発表を行っています。大西科学は、今後も科学によって人類を幸福にすべく、またさらなる発展をもとめて、いっそうの努力を続けてゆきます。
 上記は昭和六三年に決められた大西科学のロゴで、初代大西観月の愛猫であった「ゆき」をデザインしたものです。

大西科学 年表


年号西暦主な出来事
明治四年1871大西観月、上東条村に生まれる。
明治三九年1906上東条天文観測所設立。
明治四一年1908「大西式天体観測鏡」発売。
明治四三年1911ハレーすい星大接近。
大正二年1913「大西式(ゆき印)反射炉」発売。
大正八年1919大西科学設立。研究材料製造販売開始。
昭和二年1927大西幸一、大西科学所長となる。
昭和一〇年1935大西観月死去。
昭和一二年1937上東条科学研究所、独立。
昭和一四年1939大西発動機設立。
昭和一五年1940日米開戦。
昭和一八年1943大西発動機、中島「栄」エンジンをライセンス生産。
「大西式反転プロペラ」制式採用。
昭和一九年1944「大西式高精度射撃統制盤」制式採用。
昭和二〇年1945神戸−大阪大空襲。大西幸一死去。大西遥、暫定的に所長に就任。
敗戦。大西発動機解体。上東条科学研究所活動停止。
昭和二一年1947上東条科学研究所、大西遥のもと「上東科学」として活動再開。
昭和二三年1949「上東科学五極真空管」発売。
昭和二九年1953第一工場操業開始。
昭和三三年1958上東科学、川北町に移転。社名を大西科学に。
昭和三五年1960大西科学再建。大西遥、所長に就任。上東条科学研究所の所長には大西航が就任。
昭和四一年1966第二工場操業開始。「きざはし」計画始動。
昭和四五年1970「きざはし三号」軌道投入成功。
昭和四六年1971大西科学、上東条科学研究所合併。
昭和四八年19731GV電子シンクロトロン稼働開始(大西科学本所)。
昭和五〇年1975第三工場(マレーシア)操業開始。
転換炉「あめつち」実用操業開始。
昭和五一年1976「あまつかぜ」計画始動。
昭和五三年1978マツザワ・イワヤ型ホーキング炉実用化。
「さきもり」一号打ち上げ。
昭和五七年1982超電導リニアモーター試験路線開通(大西科学本所)。
昭和五九年1984マスドライバー一号機(硫黄島分所)稼働開始。
昭和六一年1986大西功、大西科学所長に就任。
「たかまがはら」計画始動。
昭和六三年1988半自動パワードスーツ「八八式強化装甲服」制式採用。
軌道発電所「あまつかぜ」一号実用送電開始。
平成元年1989警察用パワードスーツ「ドミニオン」、兵庫県警に試験配備開始。
平成二年1990初のマイクロブラックホール地上固定実験。
平成五年1993MBH二号炉「よもついくさ」産廃処理用として稼働開始。
平成六年1994「たかまがはら」一号建設開始。
平成七年1995阪神・淡路大震災。MBH三号喪失。
平成八年1996ナガサダ型小型ホーキング炉実用化。
平成九年1997「ドミニオン」部隊、大阪府警、奈良県警、広島県警で配備開始。
「平成九年度試作重強化装甲服(九試重強化服)」増加試作開始。
平成一〇年1998大西科学ホームページ開設。「九八式強化装甲服」制式採用。
軌道中継ステーション「たかまがはら一号」実用操業開始。
平成一一年1999チョキチョキハンド流行。


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