朝、目が覚める寸前に見る夢というのはときどきいやに鮮明で、現実だか夢だかわからないことがある。特に、熱が出たり、自堕落な日曜を送っていたりして一日中寝ている状態の場合、一篇のストーリーになっていることも多くて、夢から覚めた後、自分で自分の才能に感動することもあるほどだが、次第に頭が目覚めて冷静になってくるにつれてそのストーリーが実に陳腐なありきたりなものであることに気がついてげっそりする。たとえば大学生のときのある朝、私はあらかじめ枕元に置いておいた筆記用具で、夢の中で出会った名文句、として興奮した字体で次のように書いている。
「人間かどうかは、埋め込まれた機械部品の数で決まるんじゃないんだ」
頭をかかえたくなるのである。
今朝の夢も、こういう「名言」が出てきたりするストーリー仕立てではないものの、なにやらとてつもなく不安になる夢であったりした。私は、ベッドではなく、フローリングの床の上に直接布団を引くという、よく考えるとたいへんおかしなことをして寝ているのだが、その布団の上、目が覚めたのだから目覚ましを止めよう、と手を伸ばそうとして、あることに気がついた。
虫になっていたのである。大きい。ああ、布団の中に虫がいる虫だ虫だ、と夢からはっきり覚めないままぼんやり考えた私は、その虫こそが自分であることに気がつくまでしばらくかかった。が、ぐあ、げ。つまり、この虫は、自分ではないか。何度も書いてきた通り、そしてこれからも必要なら何度でも書くが、私に嫌いなものがあるとすればそれは虫だ、特にでかい虫長い虫腹がぶよぶよしている虫は嫌いなのだ。ああああ、鳥肌が立ってきた。
もちろん、虫だから鳥肌はたたないのである。私は、動顛した頭をふりふり、考えた。落ち着け。シャーロックホームズも言っている。見ているだけではダメだ観察だと。まず、私は、板の床の上、敷かれた布団の上で仰向けになっている。虫にとってこの態勢はどうか。たいへん危険な状態ではないのか、などと考えてみるが、よく考えたら身長一六三センチの虫を襲うような動物がいるとすればライオンやピューマやシャチくらいのものだろう。そして、半径五キロ以内でそれにもっとも近いのは、裏庭のテポドン(猫)の他は荒川のブラックバスくらいのものである。安心だ。
いや、安心している場合ではない。頭をひねって見てみると、私の背中には、固い甲羅、というべきか、キチン質の鎧のごとき硬くなった殻がある。腹は、と見てみて後悔した。まるっきり虫の腹である。節フシになった、赤黒い、ぷっくりふくらんだ体節が続いている。私は押しのけられていた毛布をあわてて引っ張って、腹の上に置いた。ああ、これで安心。
いやいや、安心している場合ではない。私は考えた。だいたい、このように大きい虫は生存できるものだろうか。実は、昆虫は、ある大きさ以上になれない。その理由の一つは、虫たちは我々(というかなんというか)脊椎動物に比べ呼吸系、循環系がしっかりしていないからである。虫も動物である以上、酸素を取り入れて呼吸しなければならないのだが、息を肺に吸いこんで血液中の酸素運搬器官(赤血球)に吸収させ、それを血流によって体の隅々まで行き渡らせるという仕組みを、虫はもっていない。ではどうするのかというと、体のあちこちに穴を開け、そこから直接外気を吸い込むのだ。穴の中は我々の(というかなんというか)肺がそうであるように細かく枝分かれしており、吸い込まれた酸素がうまく拡散するようになっている。問題は、結局これが拡散というヌルい物理現象に頼ったシステムであるがゆえに、ある限度以上の代謝を確保できないということにあるのだ。
話はこれで終わらない。虫は、外骨格であるがゆえに、中身が成長して、狭くなってくると、殻を脱ぎ捨てなければならなくなる。脱皮である。ところがこのとき、こういう呼吸機構を持っていることが邪魔になるのだ。脱皮するときに、この気孔の内側の皮膚も脱ぎ捨てるためには、相当うまく脱皮しなければならず、現にカブトムシあたりの大きさになると、結構な確率で、この脱皮に失敗して息を詰まらせて死ぬ。虫の体が大きくなると、この内部構造はどんどん複雑にならざるを得ず、脱皮もどんどん難しくなるのである。難しいから、虫は大きくなれない。大きくなれないわけで、すると私は大きいがこれは。
これは、これは、と自分が同じ思考の堂々めぐりをはじめたことに気付いて、どうしたことだろう、と私は思った。虫には脳がなくてハシゴ状神経というわけのわからないもので動いているのだが、それででこんなに複雑な思考を操ることに最初から無理があったのだろうか、いや違う。もっと肉体的な原因だ。そうだ。首を絞められて気が遠くなる感じに似ている。息が苦しいのだこれは。息が苦しいのだなぜだ。
あ、腹にかけた毛布だ。私は、だんだん意識が遠くなり、思考がどんどんゆっくりになってゆく中、ようやく気がついた。虫の吸気口は腹にある。毛布をかけたので、この気孔をふさいでしまっているのだ。だからいきができないのだ。いかん、いかん。これをどけないといかん。いかんが、もうてが、だるくてうごかない。てがうごかない。てをうごかさないと。なにをするんだったか。はらがなんだっけ。かゆいのか。それにしても、てがうごかない。あ、あたりがくらくなってきた、てを。くらく、てを。くらく。くらく。