逆説的だが「座右の銘は『明日できることは今日やらない』です」という文章を見かけることは、実はわりと多い。念のために注意しておくと、これは「今日できることを明日に延ばすな」とかなんとかいう警句のパロディであって、怠惰を賛美する言葉になっているものだ。ちょっと八〇年代的な、自堕落な感じが面白い。ただ、惜しむらくは今や古くなって手垢がついて、もともと言葉にわずかに含まれていた身勝手な感じが鼻につくように感じるかもしれない。
しかし、よく考えてみれば「明日できることは今日やらない」主義(が本当にあったとして)それ自体は、べつに反社会的なことを薦めているわけではない。締め切り間際にならないと仕事をしないのは、と人情論で弁護しなくとも、その仕事が「明日できる」ということがはっきりしていて、実際に期日までに完了するのであれば、何も問題はないわけだ。つまり、今日やらないのは「明日できること」だけ、どう考えても「明日できなさそう」なことは今日やるにやぶさかではないのであって、最終的には納期は守る。誰に迷惑をかけることもないし、他に急ぎの仕事があってそちらを先に進めたいような場合には「明日できることは今日やらない」は建設的ですらある。
ここで話を変えよう。「森で屁をこく」という名前のサイトがあって、私のリンクページからも尊敬とともに紹介させていただいているが、このサイト名について、作者はどういう意図でこう名づけたのか、いちど聞こうと思って機会がなく聞けないでいる。私が昔から一人勝手に考えている解釈によれば「深い森の中で木が倒れたとき、その音を誰も聞いていなかったら、音は存在したことになるのか」という有名な哲学的な問いの、パロディなのだろう。どのくらい有名な問いかというとなにしろ私が言葉だけでも聞いたことがあるくらいだが、そこを屁である。誰も聞いていないかもしれないけど、私はこのように文章を書く。屁のようなものかもしれないけれども、という感じだろうか。
もちろん、これが当たっているかどうかはわからない。サイト名の由来などというものは自分で覚えていればいいことで、広く宣伝するようなものではないから、もともとあまり意味のある疑問ではないのかもしれない。今回ここに書いたのはこの「森で屁をこく」という言葉を「明日できることは今日やらない」の解説として使いたいからである。すなわち、
「森の中で屁をこいて、その音を誰も聞いていなかったら、屁をこかなかったことになるのか」
である。さっきの「木が倒れたら」と似たようなものだが「人前で屁をこくと相手に嫌な顔をされる」という点で多少論点が明確になっている。換言すれば、誰にも見つからない犯罪は犯罪と言えるのか。他人のものを盗んだら見つかろうが見つからなかろうが窃盗だろうが、それが、周囲に誰もいないときの屁のように、本当に誰にも迷惑をかけない行為であるなら、それはマナー違反と言えるのだろうか。
日常生活でこの疑問を感じるのは、たとえば、夜中に交差点に差しかかったときである。信号は赤だが、交差する道のどちらにも人影はなく、自動車の接近も感じられない。このまま信号が青になるのを待つのがいいのか、思い切って渡ってしまうのがいいのか。
そのように人影のない交差点では、もし車がやって来たとして運転手も同じ判断をするかもしれず、青だからといって安心はできない。それなら青信号に頼らず自分の目で確かめて「車が来ていない」と判断して通過したほうがまだよい、などという考え方もあるが、まあ、これはちょっとしたごまかしである。問題の本質は、ルールを破ることが誰にも迷惑をかけなくても、それでもルールは守られるべきか、ということなのだ。
なにしろ周りに誰もいないわけだから、これは結局のところ、自分一人の問題である。各人が自身の心の中で折り合いをつければいい、ということになるのだと思うが、もう一つ、これは自己評価の問題だと言えると思う。各自の判断、それぞれが自分自身の目と耳と脳をどれだけ信じるか、ということではないか。
いついかなるときでも交通ルールに愚直に従う、という解は最も安全な道に、かなり近い。時にはルールを破って緊急避難をすべきときはあるだろうが、夜中の赤信号でも立ち止まって青を待つというのは、普通、どんな観点からも非難されるべきことではない。もしも見落としがあって車がやってきても、青信号で横断歩道を渡っていたのなら悪いのは全面的に相手である(死んでしまっては慰めになるかどうかわからないが)。少なくとも、話はかなり単純で、余計なことを考える必要はない。
一方、赤でも車が来なければ渡ってよい、という立場は、そこで「車は来そうにない」という判断を行っている自分がいるわけで、そこのところ、自分の判断は確かに信頼できる、というのは一つの仮定である。車が来るかどうか、たいていの場合は判断通りなのだろうが、測定器には常に誤差があるものでそれは人間の目も例外ではない。疲れていたり、眼鏡を落とした直後だったり、したたかに酔っていたりして精度が低下しているそのときになお「大丈夫だ」という自分の判断を信じることができるかどうかは、その頼りにならない自分にかかっているのである。いつかあるとき見落とした車に跳ねられてしまうかもしれないが、そこのところはいわゆる「自己責任」なのだ。
で。話は最初に戻る。「今日できることを明日に延ばさない」という愚直な立場とは異なり、
「明日できることは今日やらない」
とは「明日できる」という自分の判断を信用することである。先延ばしにして今日のところは帰ってしまい、ぶり照り焼きでビールを一杯、というのは、わずかな危険性を承知の上で、あえて夜中の赤信号を渡っておこうという立場だ。森の中だから周りに誰もいないことを確信して遠慮なく屁をここうという態度である。
だからして、私は思うのである。明日できることは今日やらない、と宣言したときに、人は、他人に自分の仕事の見積もり、計画実行能力を信じてもらう義務が生じる。仕事というのは他人との関わり合いなのだから、自分勝手に「見積もりが狂ったので『明日できる』とはいかなかった」と笑ってはいられない。森の中の屁と違い、自分の見積もりが現実に他人に迷惑をかけるのだから、本来自分一人でそんな判断を行う権利はないのだ。せめて「明日できます」という宣言を普段の仕事っぷりから他人に信用してもらわねばならない。
他人の信頼を得ることは、長く、険しい道のりであるかもしれず、愚直に手が届く範囲の仕事をこつこつ片づけてゆくよりも、むしろずっと苦しい道かもしれない。しかし、それでも今日のビールの一杯のためであれば、弱音をはくことなく、続けてゆく。そうした態度を、今や我々は「明日できることは今日やらない」という宣言から感じることができるのではないだろうか。私もまた、なかなかそうは言えないけれども、このようにありたいと願っているのである。