大西科学はW杯サッカー日本代表を応援しています

 という表現は、やはり協賛金のようなものを供出しないと使えないのだろうか。本当に、応援はしていたのだが。

 使える、とすると、いったい協賛企業というものは、なにを見返りに協賛金を出しているのか。企業としては、やはり、企業イメージのアップとか、主力製品の宣伝効果を期待してお金を出すわけで(そうでなければ、株式会社としてはやはり許せないと思う)、その見返りが、「応援しています」のあいまいな宣伝文句だけとは、あまりにひどいのではないか。これでは、スポーツ業界もやらずぶったくりのようなものである。
 宣伝を見た消費者が「応援しています」の文句から、あそこの商品を買えば間接的に日本代表の支援になるんだな、と判断して、売り上げが伸びるという効果があったとしよう。その効果を得るために「お金を出しました」という事実のみが必要だとして、百億円出すのと、十円出すのと何が違うのだろうか。出した金額によって差を設けなければ不公平ではないか。「大西科学はW杯日本代表を力いっぱい応援しています」「大西科学は2002年W杯を屋台骨がずたずたになるほど応援しています」「大西科学は大阪オリンピックを年間広告費の0.3%で応援しています」などなど。

 たとえば、A社がきちんと協賛金を出して、いつものスポット広告に「応援しています」の文字をいれたとする。競合するB社が「応援しているのはウチもおなじだ」と金も出さずに広告に同じ文字を入れる。応援している、という事実は証明のしようがない(金を出している、という事実なら証明できるだろうが)ので、どこからも文句がでたりはしないはずである。

 ところが現実に「応援します」の言葉が十分な意味を持っているので、やはりこれには汚い大人の世界が隠されているに違いない。広告であまり勝手なことをすると広告代理店の方にやけに体の大きいお兄さん達が押し掛けるとか。何しろスポーツ業界である。大学のラグビー部の後輩とか呼ばれるとたまったものではない。

 オリンピックの「公式なんとか」は、一業種一つの会社からしか供出金をとらないのだそうである。イメージが大事な業界、たとえば清涼飲料とか、麦酒とかでは、ライバル社の間で激しい競争があることは想像に難くない。競りのようなことまで行われているのではないか。「いや、A社さんの方からは1億ほどいただくことになっておりましてぇ。あはぁ、その程度ではなんともぉ」「そ、それでは、うちは2億だします」「えぇ、しかしもう担当者の間ではぁ」「いやもちろん、担当者の方にも十分な手当てを用意させていただき」ぅわぁ汚ねぇ。

 えー、まあ、そういう社会の仕組みはさておくとして、大西科学はW杯日本代表を応援していました。それはもう、純粋に。


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