閉所恐怖症というほどではないにせよ、やはり長い時間外気と切り離された空間にいると、ちょっとした息苦しさを感じるときがある。職業がら私は、放射線シールドが施された実験施設、英語で「ケイブ」というのだが、そういう表現がぴったりのコンクリート製の洞窟の中で作業することが多い。地下十数メートルの狭苦しい室内にいると、地上への道のりの長さとか、壁の向こうにあるに違いない膨大なコンクリートと土の質量に気持ちが押しつぶされそうになることもある。それに「地下ではセーブできない」という気がして落ち着かないのだが、これは某RPGのやり過ぎかもしれない。
私の古くからの友人に、この閉所恐怖症じみた性癖を持つ男がいる。彼はどうも、体温が人より上がりやすいのか、風が通らない室内の環境を極端に嫌う。多分、現代人より汗を出す汗腺の数が少ない種族であるせいではないかと思うのだが、暖房のついた部屋で長時間過ごせないのである。彼は、ストーブで暖まった部屋に入ってくると「むっとする」と言って、まず窓を開けて換気を始めてしまう。同居人が寒けを感じて窓を閉めても、いつのまにかまた開けている。恐ろしいことに、スキーのために長野の山奥のロッジに泊っていてさえこの性癖は発揮されたらしく、同行した友人達は口々に「あいつとは二度とスキーには行かん」と言うのだった。よく凍死しなかったものである。
そんな彼であるから、夏場は下宿の扉を完全に開け放しておくのが通例となっている。彼が部屋にいるかぎり、夜も昼も関係なしである。中学時代に相撲を、高校時代に空手を極め、なおかつ現在は熱心なプロレスファンである彼であるから、それでもいいのかもしれない。百獣の王は、草原で悠々と昼寝をするのであろう。しかし、さしもの彼といえどもアメリカでは扉を閉めて寝ていたのではないだろうか。今回はそういう話である。
その滞在中、私たちが泊ったホテルは、設備投資を押さえた代わりに部屋代の安さが取り柄というホテルで、その安さと言ったらなかった。一週間で113ドル少しというのは破格ではないだろうか。それでも風呂はあったし、お湯も出た。週に2度は掃除のおばさん(かどうか、その人を見たことがないのでわからないのだが)も来てくれる。得体のしれない長期滞在者がいたりもしたし、風呂の湯をバスタブの外に流すと必ず階下のコンピューターショップに水漏れしてあとでこっぴどく叱られるのであったが、それでも総合すれば存外快適だった。ある晩、こんなことがあるまでは。
ドンドン、とノックの音がして目が覚めた。ドンドン、とまたノック。時計を見るとまだ午前三時。空は暗い。いつまでもノックは止みそうにない。私は、眠たい目をこすりつつベッドから出ると、チェーンをかけたまま扉を細目に開けてみた。幸い、部屋の扉は一応チェーンつきのドアであった。外には、暗い色の服を着たいかついおじさんが3人いて、口々に何かわめいていた。
もう何も見なかったことにしてベッドにもぐりこみたい衝動に駆られる。眠気も堪えがたい。ああ、これは日本人観光客を狙った押し込み強盗ではないのか。命の危険を感じなければならないのだろうけど、眠たいなあ。
「ぽりーす。ぽりーす」
ほえ。
「ぽりーす。ぺらぺらぺらあ」
えーと、あなた方は、夜中に私の部屋のドアを叩いて、何をおっしゃっているのですか。まるでわからなかった。いかん。この状況は結構ヤバい。わからなくてはいかん、と思うのだが、全然聞き取れないのである。それでも、要領を得ないやり取りがしばらく続いたあと、ようやく相手がどうも警官だといっており、開けて欲しいといっているらしいことがわかった。といっても、アメリカの警官なんて見たことがないのである。警察手帳に相当するものを見せているのだろうが、それが本物かどうか、私には判断できない。なんか西部劇の保安官バッジみたいだったが、カリフォルニアってそうなのか。ああ、こんなことなら、アメリカの刑事ドラマをもっとしっかりチェックしておくべきだったよ。「ビバリーヒルズコップ」とか「マイアミ・バイス」とか「刑事スタスキー&ハッチ」とか「忍者ジョン&マックス」とか。
判断できない以上、開けるべきではなかったのかもしれない。しかし、そのとき私はもう眠くて眠くて、どうでもいいや、という気分になって扉を開けたのだった。
幸い、警官達は本物だったらしい。私が扉を開けた途端に中になだれ込んできて、ということはなかった。ただ、うろうろと懐中電灯で部屋の中を照らし始めた。誰か他に隠れていないか見ているようだ。部屋の中に入ってこないのは、なにかそういう法律があるのだろうか。
「ぺらぺらぺらは、どこだ」
警官は言った。
「え、ぱーどんみー?」
「ぺらぺらぺらだ。ぺらぺらぺら。ぺらぺらぺらはいないか」
繰り返されても、困る。私は必死で眠気を振り払うと、言った。
「もうちょとゆっくり、いてくださーい」
「ぺらぺらぺらだ」
私は、泣きそうになりながら、
「ぺらぺらぺら、ほわっと」
「ぺらぺらぺらはぺらぺらぺらだ、わからんか」
人名だろうか。地名だろうか。全然聞いたことのない単語なのである。私はゆっくりと両手を肩まであげると、手のひらを上にして、肩をすくめて見せた。
「わからん」
怖いもの知らずというか、眠たいにも程があるというか、最後の発言は日本語である。警官達はそれでも互いになにか言い交わしていたが、あきらめ顔で「もう結構」とか何とか言って、扉を閉めて行ってしまった。聞き取れなかった単語が「手を上げて両手を壁につけろ、さもないと撃つ」という意味だったら、撃ち殺されても文句は言えないところである。皆さんは、真似しないように。
緊張の糸が切れる、とはこういうことを言うのだろうか。ぶり返してきた眠気に誘われるまま、私はすぐさまベッドに倒れ込んだ。「ぺらぺらぺら」がどんな単語だったか、あとで調べようにも、思い出せないのはそのためである。
いったい何だったのだろう。その単語を忘れてしまったのは悔やまれるが、察するに凶悪犯かなにかが逃げていて、すべての部屋をチェックしていたのだろうか。次の日、同じホテルに泊っていた仲間達に尋ねたところ、警官が尋ねてくるような経験をした人はだれもいなかったらしい。ただ、そのうちの一人はこう言ったのだった。
「関係あるかどうか分からないが、そういえば、昨晩、12時頃かな。どこかでものすごい音がしていた。銃声や、言い争うような音だった」
この一件、いまもって何だったかわからない。ただ、かの友人のように、寝苦しいからと言って扉を開けっぱなしにしていなくて良かったと思う。