無くしてしまってから、そのかけがえのなさに気がつくことがある。
空はあくまで青く、澄んでいるけど、この空の下にもう君はいない。
ああ、僕は君がいなくちゃなんにもできないんだ。そう気がついた。
いつも無くしてしまってから気がつくのだろう。大切な君のことに。
などと思わせぶりなタイトル、さらに詩で始めてみたりしたが、ここでの「君」とは、私の鞄の「肩かけひも」のことである。
ここ数年、私はある革鞄を使ってきた。茶色い革製の鞄で、かろうじて正式な席へも持ってゆけるし、カジュアルであると言い張ることもできないではないという、なんというか、私という人間を象徴するようだが、そういうどっちつかずの鞄である。選んだ理由はもう覚えていない。そのころ使っていたビニールの鞄ではオトナとしてあまりに恥ずかしいと思ったのか、ポケットの沢山ついた鞄に憧れていたのか。ただ、結構高価だったことだけは覚えている。多分2万円を越えるはずだ。
この鞄には、手提げ用の把手と、肩から掛けるための肩ひもがついていた。私はこの鞄でパワーブック某というノートパソコンを持ち運んでいた時があって、なかなか重いこのノートパソコン運搬のためにはずいぶん肩ひもが役に立った。今ではどこへ行くにも愛しのノーパソ君と一緒などということは無くなったが、かわりに「携帯情報端末」とか「デジタルカメラ」なんかが入っているのでさほど重さは変わらない。
ある日のことである。私はいつものように鞄を肩からさげて歩いていた。と、ポン、と鞄が突然空中に放り出された。地面に落ち、ごろごろと転がる鞄。軽くなった肩。
「にょ」
私の口をついて出たのはそんな奇怪な音だった。びっくりすると人間、何を言うかわからない。何が起きたのか理解できないまま、とりあえず鞄を拾い上げた。幸いそこは秋田大学の生協の前という、人通りまばらな位置だったので、その場に立ち止まって鞄を検分していても他人の邪魔にはならなかった。
なるほど。私は理解した。鞄をぶら下げていた肩ひもが突然切れたのだ。さらによく見ると、切れたといっても、太い革の帯が切れたのではない。肩ひもを鞄に止める金具が摩耗して、自在継手部が外れてしまったものらしい。継ぎ手を子細に点検してみると、長年にわたって重い荷物を支え続けたためか、鋳鉄製の金具がすっかりすり減って、まわりに黒い鉄粉になって飛び散っていた。触ると指が黒く汚れるという生々しさである。おうおう。こんなになりながらも、文句も言わずに頑張っていたんだね。
しかし、目下のところの関心事は、肩ひもがいかに頑張ったかではない。言ってみれば、外れたものなら入れ直すことだってできるはずである。私は立ち止まったまま黙々と金具をひねりまわした。黙々というのは嘘だ。力を込めるときの掛け声のつもりなのだが、「みょ」とか「にゃ」とか意味不明の言葉が口から漏れていた。しかし、もう取り返しのつかないくらい摩耗が進んだ金具は、一瞬前までしっかり鞄の重量を支えていたことなど忘れてしまったかのように、頑として再結合を拒むのであった。一度壊れてしまった関係は、元に戻らない。そういうものだろうか。
鞄の中に入れていたデジタルなアイテムは、ずいぶんあとになって気がついてぞっとしたのだが、一メートルくらいの高さから落とされたにもかかわらず幸いにも壊れていなかった。しかし、私の苦難はそれからであった。もはや邪魔なだけの切れた肩ひもを取り外してしまうと、鞄には手提げ用の把手しかない。最近の高校生は使っているのかどうか、ちょうど学生鞄のような状態である。それで十分かと思ったのは一瞬で、日常のさまざまな場面でこの肩ひもがないことがかなり苦痛に感じられることがわかった。
たとえば本屋。今まで気がつかなかったのだが、私は本屋で買い物をするときは、左手に選んだ本を持って、右手で他に買う本がないか探しているらしい。ところが、鞄の肩ひもがないと、常に片手は鞄でふさがっていることになるので、これまで左手で持っていた「選択済みの本」は脇にでも抱えるほかなくなる。
ええと、その、こんなこと気にするのは私だけかな、とちょっと思わないでもないのだが、あのう。えい、言ってしまおう。本屋で金を払うときに、レジのところの店員さんに一旦本を渡す、そのとき本が生暖かくなっているのって、どうなのだろうか。店員さん、なにも言わないけど「ひゃあ、やめてくれよう」って思っているんじゃないか。脇に抱えると、不可避的に体温が移って本が暖かくなってしまうのだけど。
気にしすぎなのだろうか。私は、鞄の肩ひもが切れて以来、本屋では常になんとなく急かされているような気分を味わっている。
他にはコンビニなどで代金を払う時など、両手が使えないで困ることは多いが、いざとなれば鞄を一旦床に置いてしまえばいいのであるし、実際そうしている。そういう意味では、両手が使えなくて一番困るのは、尾篭な話で恐縮だが、駅などでトイレに入るときである。これは困る。他の人はどうか知らないが、私は小用を足すときには両手が必要なのである。トイレとは得体のしれない液体で床が湿っていることにかけては他の追随を許さない場所なので、鞄を床に置くことだけは避けたい。近くに荷物を置くための台がある時はいいが、そうでないと途方に暮れてしまうのである。最後にはどうにかするのだが、どう「どうにかする」かはヒミツ。
この鞄、実はあちこちほつれたところを縫い直していたり、閉まりにくくなったジッパーなんかがあって、そろそろ寿命かと思わないでもない。切れた継ぎ手を修理するのは難しそうなので、この文章を書き始めるまでは「新しい鞄を買いに行こう」と結ぶ予定だった。ところが、書いていて解決法を思いついてしまった。他の鞄の肩かけひもだけを取り外して使えばいいのである。おお、ナイスアイデア。
…さっそくやってみたところ、なかなか具合がいい。というわけで、和光市や池袋で革鞄にスポーツバッグの変な肩かけひも、という鞄を提げて歩いている男をみかけたら、それは私です。にゅ。