いい天気というのは、晴れのことだ。
と、日曜日、真っ青な空を見上げて思った。ようし、洗濯洗濯。
とはいうものの、我々は「いい天気」が人によって、時によって変わることを認識せねばならない。英語では晴天は「fine」であり、定義からして良い天気なのだが、天気予報官の使う慣用句としての「いい天気=晴れ」は誰にでも必ずしも成り立つとは限らない。たとえば、農家にとって、抜けるような青空、特に夏場のそれは必ずしも「いい天気」ではない。薄曇りで、強烈な日光を浴びなくて済む一日のほうが、かえって農作業に好適なのである。また、水不足に苦しめられる地域では雨の日こそいい天気であろう。それに、敵軍に制空権を奪われ執拗な爆撃にさらされる戦地では航空作業のできない荒天こそ、あ、いや、なんでもない。同じように、私にとっても、ある一時期、雨の日こそがいい天気であった時期があった。
話は私の高校時代にさかのぼる。年号がまだ昭和だったその最後の数年、私は高校に自転車で通っていた。なにぶん田舎であるから高校までは二十キロ弱の距離がある。これを毎日自転車で走破するのはちょっとどころではない苦行だったのだが、なにしろ田舎であるから代替交通手段がバスしかなく、しかも田舎であるからそのバスは一時間に一本で、そのうえ田舎であるから独占区間となっており、その運行会社が片道六百円という暴利をむさぼっていたのだ(あとで何度か値上げもあった)。一学期の間通用する定期を買うと六万円くらいしたのではないかと思う。高校入学の日、私は父親に言ったものだ。
「如何に考えてもこの商売は許し置けぬ。宜しい。私は自転車で通学することにする。そのかわり、この定期券代に相当する額を小遣いとしていただきたい」
父は莞爾と笑った。
「うむ。そうするが良い」
しかし、結局のところ、高校時代を通じて私の一ヶ月の小遣いは四、五千円程であったことに今気がついたが、どういうことか。だまされていたのだろうか、私は。
小遣いのことはどうでもよい。こうして始まった自転車通学だったが、自転車での二十キロは一つの旅といっていい。この旅程は普通に行けば大体一時間弱程かかる。毎朝一時間かけて自転車を漕ぎ、高校に着く。そして、授業が終わるとまた一時間かけて自転車を漕がなければ家に帰れないのだ。私の高校生活の十二分の一は、私の青春の日々のうち丸三ヶ月間ということになるが、自転車の上でむなしく消費されたことになる。起きている時間の八分の一だ。どうりで明るい高校生活などというものを送る暇がなかったはずである。
パンクなどのトラブルも多かった。ひところは毎週のように道半ばで自転車屋の世話になり、遅刻を危うく免れていたものである。パンクした自転車を押して五キロほども歩いたこともあるが、あれは情けないものだ。どうしてこんなに故障が多かったのかというと、なにしろ長距離なものだから、自転車各部の耐久性能をぎりぎりまで引き出すことになるから、らしい。ある日、すっかりすり減ったタイヤを交換しに行った自転車屋で聞いたところによれば、自転車のタイヤの耐久距離は五千キロメートルなのだそうである。五千キロというと長いようだが、一日四十キロ乗っているとわずか百二十五日、本来は四ヶ月に一回タイヤごと交換しなければならないということなのである。パンクが多いのも、むべなるかな。
だいたい、私がこうして自転車で無意味に筋肉を付けているあいだ、バスや電車で通学している他の生徒はせっせと英単語ないし歴史の年号の記憶にいそしんでいたのではないだろうか。私がパンクした自転車を押している間に、電車通学している男女の間になんらかのロマンスが生まれるということはなかったか。私が蚊柱に突っ込んだ拍子にアマガエルのように羽虫を飲み込んでしまっている間に、彼らはターミナルでコーヒーの一杯も飲んでいたのではあるまいか。うおお、俺の青春を返せ。
しかし、こんなスパルタンな毎日にも例外はあった。雨が降っているときはバスで往復してよい、という不文律ができあがっていたからである。もちろん、自転車には常にゴムの雨ガッパが装備されており、帰路に雨が降ったりしたら学生服の上からカッパを着込んで帰ってくるのであったが、朝から雨の場合だけは例外だった。最初からバス通学に切り替えることになっていたのである。
実際には、ダイヤの都合上バスに乗ろうとするとやや早起きしなければならないので、ほとんどバスを使うことは無かった。ではどうするかというと、父親の自家用車で途中まで送ってもらうのである。なんという過保護かと今書いていて思ったが、そうだったのである。
まあ、過保護かどうかはさておき、もしあなたが、毎日重労働をしているとして、その日は休み、ということが朝起きた瞬間にわかるシステムになっていたとしたら、どうだろうか。その休みは定期的に訪れる日曜日以上に素晴らしいものに思えるのではないか。そして私には、その休みのサインが雨だったのである。そういえば、学生時代に造園のアルバイトをしていたときも雨の日は休みだったが、この場合はその分収入が減るというデメリットがあった。その点、高校生の私には雨で失うものは何もない。せいぜい父親が面倒な思いをするだけである。
そういうことなので、その三年間というもの、私は朝起きて、窓の外から雨音が聞こえるたびに、喜びに打ち震えたものである。面白いもので、こうまで雨を待ち望んでいるとしまいには雨音を夢にまで見るようになる。夢を見て飛び起きて外を見て、晴れているときの落ち込みようといったらない。特に、一ヶ月にもわたって一滴の雨も降らない季節には、天気予報の「今週いっぱいはいい天気でしょう」などという言上に殺意さえ覚えるのだった。私の境遇は相当特殊なものだと思うが、この文章の初めに書いたような理由で曇りや雨を良い天気としている人も決して少なくないのではないか。いいのか、天気予報官。
自分でもおかしいのだが、この雨が大好きという感覚は、もはや自転車通学の必要が無くなった大学生時代に入ってもしばらくの間、なお私を支配していた。朝雨が降っていたら、大学生の私にとってそれはもう厄介者でしかないはずなのに、何となく嬉しくなるのである。こうして、アマガエルは今でも雨が降ると、空に向かって「自転車に乗らなくて済むケロ」と喜んで鳴くのでした。めでたしめでたし。
って、だれがカエルだ。それに今はもう、雨は嫌いになっている。洗濯ができないからである。