来年のことを言うと・追補

00.11.17

 この回に登場する命題、
「物事をある瞬間観察した場合、1/2の確率でその残りの寿命はこれまでの存続期間の1/3から三倍の間である」(命題1)
について、やはり成り立たないのではないか、という観点から、数多くの質問をいただいた。ここに、解説を補い、追補とする。まず、問題点を洗い出す過程において、主として議論相手として多大な時間を割いていただいた「やす」さんに、特に感謝を捧げたい。

 結論から言えば、上記命題に関して、主としてミスディレクションとなるのは「1/2」という確率が、どういった予言群について言えるものであるのか、ということに関する理解の違いである。本文中の主張に即して考えるならば、この問いへの答えは「あらゆる時間における、同様の推測に対して、それらのトータルとしての的中率が1/2となる」ということになる。ほとんどの誤解は、ここの部分に関する認識の差から生じていたように思われる。

 もう少しかみ砕いて言おう。本稿の予言に関する主張は、次のような事例に置き換えて考えることができる。暗い廊下に、無数の、さまざまな長さを持つ紐が、廊下に沿って落ちている。あなたは、廊下の適当な部分を選んで、しゃがんでその紐の一つを手に取る。そのとき、その手に取った部分の左側の長さだけが情報として与えられる。それでは、手に取った部分の右側の長さは、いかほどであるか、予想ができるか。

 端的に言って、この紐の例えでは、命題1と同様の推理を用いた推測が完全に可能である。一見、左側の長さがいかほどであろうと、右側の長さには関係ないように思えるが、そもそも、紐のどの部分を手に取るかというのは紐の長さに対して全く一様な確率であるはずであり、たとえば、左側半分と右側半分を手に取る確率は同じである(一本の紐に関して言うならば)。以上のことを敷衍すると、命題1同様「右側の長さは、左側の長さの1/3から3倍に、1/2の確率で収まる」という範囲内での予測が、可能である。

 が、この論法から明らかであるように、この予測は「廊下のどの地点で立ち止まるかが完全に一様である」という前提の場合のみ成り立つ。人が一ヶ所に立ち止まって、足もとに並んでいる無数の紐について予測を行ったり、ましてや、同じく一ヶ所に立ち止まったままあらゆる紐の左側の長さを測定し、右側の長さについて統計的な予測を行ったところで、的中するとは限らない(紐の長さや配置について、いくつか仮定を用いれば的中すると言えるが、これは一般に成り立つとは言えない)。これらの誤解された状況は、上の「予測が可能である」とした状況とよく似ているように思えるが、実はこの命題1の適用条件として想定されるべきバックグラウンドとは異なる。成立しなくて、当たり前なのである。

 例としては、廊下に落ちている紐が、この命題の裏をかくように、恣意的に並べられている場合を考えればよいだろう。たとえば、多数の長い紐が、ある箇所を起点に並べられている場合を想定して欲しい。この場合、この起点近くに立ち止まったまま多数の紐について観察すると、明らかにこの命題1が成り立たないことがわかる。

 では、この命題1は未来予測には使えないのだろうか。現実には適用できない、机上の空論なのだろうか。

 違う、と私は考えたい。恣意的な紐の並べ方を考えにいれてなお、十分に多様な一般の地点について、紐についての同様の考察を行えば、やはり命題1の確率は成り立つ。予測に関する言葉で言い直せば、あらゆる時代の予言者が、自分の時代について同等の考察を行ったとすれば、それら予言の的中率を総計すれば、1/2になるといえるのである。これは、必ずしも同じ事柄(たとえば、マイクロソフトという一社の寿命)について、その創世期から終末まで繰り返し予言を行う、という、いわば「ずるい予言」を行うことを意味しない。その時々で、適当な事項を選んで同じ予言を行えば、そしてその予言の数が十分多ければ、やはり、予言の的中率は1/2に近づいてゆくのである。やや不正確な比喩になるが、これはありがちな、毎年毎年「富士山が噴火する」と「予言」している場合と同じではなく、毎年毎年、適当な火山を選んで「噴火する」と予言し、その的中率が1/2であるようなものである。であれば、これは予言に使用できる、と言ってもよいと、私は思う。

 以下は蛇足になるが、以上を理解した上で、まだ「未来が予測できてしまう」ことに不安を感じる方のために、さらに二項、補足的な説明を加えておく。第一に、この主張に沿って予測可能である、としたところで、実はその範囲が非常に広く、曖昧であること。第二に、現在の囚われ人である我々にとっては、他の時代との平均によってこの命題が成り立っているということが、あまり慰めにならない、ということである。

 第一の点に関しては、残りの寿命「これまでの存続期間の1/3から三倍」が、非常に広い領域であること、それから、そういう広い領域に対してなお、的中確率は1/2と低いことを指摘すべきである。予言領域をより狭く、あるいは的中率をより高くする方向でこの命題を書き換えることができるが、領域と的中率は常に不確定性原理における位置とエネルギーのような両立しない構造になっている。さほど、大胆な予測になっているとは思われない。

 第二の点に関しては、今、この瞬間において、いかに多数の予言を行ったとしても、それら予言の半分が当たるとは主張できない、という点を、今一度、明確にしておく必要がある。私は、本文中で小渕総理とマイクロソフトについて有効な予言を一つずつ行っているが、同様のことを幾つ行っていたとしても、それらの半分が当たる、という主張をすることはできない。たとえばもしも、予言を行った次の瞬間、全面核戦争や巨大隕石の衝突などという大きなイベントが生じた場合、私が思い付くような物事はほとんどその時点で終りを迎えてしまうことになり、とうてい予言群の半分が的中するとは思えない。
 この場合、いくら「たとえば、百年くらい前からの平均として、的中率が1/2なのです」と頑張ってみたところで、現在多数の予言をしたばあい、それについての的中率が低い、ということには変わりなく、それは現在におけるいかなる努力をもってしても「終わってしまったことについてどうこう言っている」という感はぬぐえない。結局のところ、この命題が「自己矛盾を持たない」というだけでなく「証明可能」であるためには、今日と変わりない明日がくる、という仮定をもってして初めてこの時代のみについて確率1/2で成立する、という、この命題の特殊な場合を証明し、もって、十分条件として命題1の正当性を主張せねばならない、ということなのかもしれない。


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