山手線のシャーマン

 幸運以外のなにものでもないと思うのだが、今のところ私は電車その他の交通機関による通勤を強いられたことは一度もない。だからこそ、いくらそんなものはないと指摘されても、通勤通学の車中で発生しているに違いないロマンスに、ずっと憧れを感じ続けているのである。問題は、定期券を今まで一度も買ったことがないということで、将来必要になった時にどんな失敗をしでかしてしまうかと思うと気が重い。はしかと同じように、年をとってからの恥は重いのだ。定期券って、券売機で買えるんだっけ。

 そういうことが理由のひとつになっているのだろうか、私は今一つ電車には乗り慣れない、という気がしている。乗り慣れていないため、目標の時間に遅れないように行こうとするとどうしても所要時間を大目大目に見積もってしまい、目的地に着いたら待ち合わせ時間の一時間前ということが少なくないのだ。ひどいときなど、待ちあわせ二時間前からその辺りをうろうろして、買わずもがなの本を買い込んでしまったりする。あるとき、とてつもなく時間が余ったので近くの電気屋を覗いていたら、思わずハードディスクドライブを衝動買いしてしまった。さすがに待ちあわせた人にあとで目を丸くされた。どうして2ギガの外付けハードディスクを抱えて飲み会なのだ。

 そんなことが続いて、さすがの私も少し賢くなった。今週の初めに「牛丼教」の会合があったのだが、時間をきちんと計算して、時間ピッタリに新宿に着くように電車に乗ったのである。ただ、一時間早く出てついでに秋葉原に寄ろうと思ったのが運のつきであった。路線図を見て初めて気がついたのだが、池袋起点で、新宿に向かわなければならない場合、秋葉原というのはちっともついでではないのである。時計の文字盤を山手線だとすると、十二時のところにある池袋を出発して、十時のところにある新宿に向かうために、四時のところにある秋葉原を経由するということになる。秋葉原−新宿はほとんど反対側になってしまうのだ。この所要時間の見積もりを誤ったため、また秋葉原である希少商品を探して未練がましくうろうろしていたおかげで、結局待ち合わせの時間に遅れていくことになってしまった。関係者の皆さまには今一度深くおわび申し上げます。今回はその、秋葉原から新宿までの電車の中で起きた出来事である。

 日曜日の夕刻だからだろう。電車はさほど混みあっていない。秋葉原の駅のホームで列の先頭に並んでいた私は、悠々座ることができた。座席の端から、一人座ってその隣、という位置である。私の左隣、座席の端のほうに座っているのは、なにやらくたびれたコートを着たおじさんだった。右隣にはカップルらしき男女が座っている。降りる人、乗ってくる人が入れ替わって、電車は走り始めた。

 どこかで本の一冊も買えればよかったのだが、待ち合わせに遅れそうとあって、その時間がなかった。うろうろと吊り広告などに目をやったり、待ちあわせ場所を記した手帳を確認したりする。さらに山手線の路線図を見て駅の数を数えたり、どこかの中学校の入試問題を解いたりする。すぐ終わった。携帯情報端末を持ってこなかったことが悔やまれる。学術論文の一本でも書けていたかもしれないのに。私は書きかけの論文について考え始めた。

 「パラグライダー専門ウェブサイトはパラサイト」あるいは「ベツレヘムのバラ略してベツバラ」などと、やくたいもない雑想に満たされた私を乗せて、やがて電車は東京駅に着いた。私の両隣にいたおじさんとカップルが両方とも座席を立って、電車を降りてゆく。私は急に広くなった座席にぽつんと座っていることになった。
 さて、こんなときだ。あなたならどうするだろうか。
・一つ左に座席をずらして、座席の端に座り直す。→あなたは、本能のままに行動する人です。
・そのままの位置に座り続ける。        →あなたは、鈍感で面倒くさがりな人です。
・カップルのいたほう、座席の中央に座り直す。 →あなたは、ひねくれ者です。
・四人分の座席を使って、寝転ぶ。       →あなたは、酔っ払いです。
 私はこういう頭の悪そうな心理テストを頭の中で組み立てつつ、なんとなくそのままの位置に座っていた。降りてゆく客が途切れ、ホームで待っていた新しい乗客が乗りこんできた。

 その乗客の姿を見て、私は目を疑った。真っ先に電車に乗り込んできたのは、来たのは、あれは、なんなのだ。
・頭からすっぽり布をかぶって、水晶玉を持っている。 →その人は、占い師です。
・子供のような背丈で、両側から大男に抱えられている。→その人は、捕まった宇宙人です。
・頭にターバンを巻いて、腰にはサーベルを差している。→その人は、マハラジャです。
・三つ編みにして、赤と黒の繊維で編んだ服を着ている。→その人は、シャーマンです。
 そうだ。シャーマンだ。シャーマンだったのだ。第二次大戦中のアメリカの戦車のことではない。まじない師である。かんなぎである。自然と会話する者である。服とおそろいの、藁を編んだような手提げ鞄は、なにか素朴な材料で塗られていて、銀と黒の混ざった髪の毛が、丹念に両側で三つ編みにされている。女性である。まだ若い。その風貌に、どことなく北米大陸の香りがするのは私の気のせいだろうか。胸にはイルカか魚をかたどったらしい金色の飾りがじゃらじゃらと下がっている。
 まさかと思ったが、シャーマンは私の左隣にまっすぐ歩いてくると、そこに腰をかけた。左手で胸の飾りをなにやら大事そうにいじり回している。さすが東京である。地方では滅多にシャーマンなどと出会えるものではない。東京駅で座席はいっぱいになり、また電車が動き始めた。

 あまり見るのも悪いかと思ったが、なにしろ気になって仕方がない。ちらちらと横目で見ていると、手提げ鞄、というかカゴから、なにか本を取りだして読んでいるようである。シャーマンはどんな本を読むのだろうか。ちらっ。
「霊山に隠された謎。古代呪文の発掘。未確認生物(UMA)を追え」
 うわっ。私は慌てて目をそらした。そのまんまである。いや、ちょっと違うか。トンデモさんというやつか。とにかく期待を裏切られはしなかった。

 私は好奇心でいっぱいになった心を無理に押さえて、反対側に目線をおよがせた。東京駅で右隣に乗り込んできたのは、小さな子供である。六歳くらいか、小学校に上がるか上がらないかくらいの男の子である。手に下げた買い物袋をのぞき込んで、中のおもちゃを見ている。今買ってきたばかりなのだろう。箱を袋から出したりしまったり、家まで待ちきれない様子だ。左側があんななのでなんとなく観察してしまう。彼が購入したおもちゃは、エヴァンゲリオンの人形だった。なぜ今エヴァなのだ。しかも零号機改か。少年は綾波が好きらしい。

 シャーマンとアヤナミストに挟まれて私は天を仰いだ。いや、六歳の少年がアニメファンであっても何も悪いことはないのだ。問題はシャーマンである。これは呪いか。カレー教が私に刺客を送ったのか。私の隣に座って、髪の毛かなにかを狙っているのでは。って、それはシャーマンとはちょっと違う気がする。
 ふと気がつくと、シャーマンときたら、ぶつぶつと口の中で何かつぶやき始めている。呪文か。スペルをキャストしつつあるのか。私はこわごわシャーマンを見た。まだ本を広げている。
「イベント発生の条件。王様に会うためには」
 あっ。
「最適なパーティの構成。盗賊ギルドに侵入」
 ああっ。何かのゲームの攻略本だ、これは。するとさっきの見出しも、ゲーム内のイベントの解説、ということになる。私は安堵の息をついた。

 覚えておこう、シャーマンもゲームをする。するのはいいが、電車の中で攻略本を広げるのはみっともないぞ、シャーマン。僕らの夢を壊さないでおくれよシャーマン。振り向けば、右側の男の子はついにエヴァンゲリオン零号機を箱から取りだしてしまっているのだった。新宿は遠い。


グラタン
グラタン][グラタン][グラタン