寒い寒い寒い夜

 その晩は近来まれに見る寒さだった。少なくとも私が感じた中では最悪の夜といってよかった。

 私は、夜半、あまりの寒さに目を覚した。時計を見ると午前二時。底冷えする、というのか、寝転んだ自分の体が地面と接するところから、痛いような冷気が伝わってくる。刺すような冷気、というがまさしくこれだ。テントに入っているうえに、防寒服を兼ねた作業服を着ているのに、お構いなしに染み込んでくるのだ。自分のうかつさに歯がみしそうになる。昼間歩き回った熱が冷めきってしまう前に少しでも眠っておくべきだったのだ。テントの中はいよいよ冷え込みはきつく、これ以上は眠れそうにない。食いしばった歯が、それでもがちがちと鳴る。

 私はたまらずテントの中で起き上がると、感覚のなくなった指をだましだまし使いながら、調理具兼用の暖房具を取り出し、火を入れた。残り少ない資材を節約すべきなのはわかっているが、このままでは体力を著しく消耗してしまうことは明らかだった。この極限状況で、歩く力を失うことはすなわち死を意味する。凍傷によって手足を失うことも恐ろしかった。暖房具の赤い光に指先をかざし、手袋の上から少しずつもみほぐしてゆく。暖かさが、流れ始めた血液とともに体に流れ込んできて、ようやく人心地つく。

 ベースキャンプをただ一人出発して、もう三日になる。初めの一日は動き回っていると暑いくらいだった。だが、快適だったのはその一日が最後だった。その日の夕日を見送ったのを最後に、二度と太陽が見えることがなかったのだ。寒さはこれからだというのに、徐々に冷気は堪え難くなってきている。私は早くも、この独行自体に疑問を覚え始めていた。やはり、街からの救助を待ったほうが良かったのではないだろうか。街の方も年々裕福とは言えない状態になりつつあるが、経験を積んだ五名の隊員を見捨てるとは思えなかった。

 すべては、一週間前、前進キャンプで起こった事故が原因だった。最も経験を積んだ年長の作業者である隊長と、同行していた隊員の二人が、突然現れたクレバスに落ち込んだのだ。隊員は即死。岩の間に作業服を挟まれた隊長は、かろうじて死は免れたものの、必死の脱出の試みもむなしく、彼の運搬していた資材もろともさらなる深みにはまりこんでしまった。なお悪いことは、隊長の救出や、荷物の回収の困難さを思い知るまでに、かなりの活動資材を浪費してしまったことだ。順調だった資源探索はサバイバルの場と化していた。

 数日にわたる無駄に終わった救出作戦の後、最終的な方針を決めたのは副隊長だった。ベースキャンプを維持し、隊長の救助活動を続けながら、街に救助を求めにゆく。隊長たちと共にただ一つの強力な無線通信機が失われたため、街との通信は不可能だった。誰かが街まで歩いてゆくしかない。こうして私は、仲間と別れ、一人分の資材とテントを担いでただ一人街へと向かったのだった。

 私は手持ちの道具袋から調理器具を取り出すと、金属のカップを暖房具に乗せて水を注いだ。ゆっくりと氷水が暖まり始めるのを待ちきれないように、携帯口糧を投げ入れ、強引にかき混ぜる。それでもしばらくして、氷が溶けきり、いい香りがテントの中に充満した。気圧が低いため、沸点はかなり下になっている。それでも沸騰させるような贅沢はできなかった。ぬるま湯程度にあたたまったカップを火から下ろし、一気に流し込む。体の中から暖かさが広がる。私は、ほっ、と息を吐きだし、カップをしまいこんだ。今日の食料はこれだけである。高カロリー食とはいえ、この頼りなさには泣き言がでそうになる。カロリー自体も成人の必要量を遥かに下回っていた。

 しかし、これでも私などまだましな状態なのだった。副隊長ともう一人の隊員は、私を独行に送りだすために極限まで資材を切り詰めていた。隊長たちと共に失われた資材は、それほど多量だったのだ。救出活動というが、それほど切り詰めた資材では、これ以上ほとんど有効な方策をとれそうにない。考えたくもないが、副隊長は一番若い私を町に帰すことで生き延びさせようと思ったのではないだろうか。街の未来を背負う若者を生き延びさせなければならない、などと考えて。

 もっと暖まっていたい、という気持ちを強引に押し殺して、私は暖房具を止めた。テントの中は真っ暗になる。ろくに睡眠もとれず、体力も回復しないままだが、今日の行程を始めることにした。作業服の密閉を確認すると、テントから空気を回収し、ぺしゃんこになったテントを抜け出す。冷気にきしむ作業服に冷や汗をかきながら、ぞんざいにテントを折り畳んだ。

 見上げると、いつものことだが、怖いほどの一面の星空が、まばたきもせずに私を見下ろしていた。その中に、ひときわ青く輝く母なる星が見える。核戦争によって灼熱し、死に絶えた星。私はクレーターが果てしなく続く月面に立ち、作業服に包まれた右手をそっと地球にかざした。そのぬくもりを、ほんのかすかにでも感じられないか、と。私は首を振ると、テントを担ぎ挙げ、歩き始めた。この人類にとっての冬の中を、たったひとつ月面に残された街を目指して。

 十四日も続く月面の夜は、寒い。とにかく寒くてたまらなかった。


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