時々は、バスに乗る。田舎行きバスは、温かな夕日の中をゆっくりと走っている。大阪から西へと向かう中国縦貫自動車道路は、年末の渋滞が始まっており、目的地到着はまだまだ先のことのようだ。私は、バスの中で読む本を忘れたことをちょっと後悔しながら、窓の外の景色を見ていた。バスは同じ方向へと向かう人の群れでほぼ満席になっている。
バスの座席というのは、どうしてこうも狭いのだろうか。そんなにめちゃくちゃには太っていないつもりなのだが、私が席に収まり、隣に見知らぬ青年が座ると、身の置き所に困る。腕の置き場所が無いのである。仕方なく腕組みをしているが、なんとも苦しい体勢であって、ちょっと昼寝をするというわけにもいかない。バス停を乗り越してしまうのも怖かった。隣の青年は鞄から雑誌を取りだして読み始めたが、これが得体のしれないファッション雑誌であって、横目で盗み見ても何の暇つぶしにもならない。
「…ほうせんか」
「かぎ」
後ろの席で、しり取りを始めた親子がいる。若い母親と、小学校前くらいの子供が二人。父親に先んじての帰省だろうか。一向にはかどらない旅程に、暇を持て余してしり取りを始めたらしい。というより、暇を持て余しているのは子供たちの方で、お母さんの方は一眠りしたいと思っているようだ。いかにも眠そうな声なのである。
「ギター」
とお母さんがいうと、小さいほうの子から質問が出た。
「ギターってなに」
なるほど。知らないか、ギター。
「バイオリンみたいなものよ」
これで説明になるのかなあ。
「たかのつめ」
おいおい、それは渋すぎやしないか。でも小さい子から質問がでなかったところを見ると、「たかのつめ」はアリなのだろう。このように、しり取りはその家のプライベートな生活を反映するのだった。
「めだか」
「かたたたき」
「きてれつ」
年上らしい子供はなかなか語彙が豊富である。しかし「奇天烈」かあ。コロ助が出てくるあれか。
「つり」
これは年下らしい子供。あ、「釣り」。その後は「利殖、雲、モンロー、ロボット、陶磁器」と続けるのだ。それが掟だ。ところでこの次は何だったか。
「リンゴ」
やれやれ。おっと、リンゴ。「ゴリラ、ラッパ、パンツ」と続けるのだ、それが掟だ。
「こばんっ」
おや。
「じゃなくて、こいきんぐっ」
だろう。でも、こいきんぐって、なんなのだ。鯉キングか。
「くち」
「ちゃわんむし」
渋いなあ、お母さん。
「むしむしきゅー」
「きゅーっ」
ああ、うん、あれは面白いな。でもしり取りじゃなくなっているぞ。
バスは西宮インターを降りてバス停に止まり、またインターチェンジを登ってゆく。宝塚を過ぎた辺りからやっと渋滞は解消されていた。ひたすら意固地になって窓の外を眺めている私の後ろの席では、しり取りにも飽きたらしい。母親がなぞなぞの本を読み始めた。子供たちが声を合わせて答える。もう、何度も読み込んだなぞなぞ本らしい。
「竜の仲間で、食べたものをいつも吐き出しているのはなあに」
「白竜っ」
ええっ。
「耳が四回ぴくぴくしているのはなあに」
「ピクシーっ」
ははあん。ポケモンか。ポケモンなぞなぞというやつか。しかし、あちこちで何度も言っていることだが、どうして任天堂はあのモンスター達の名前を周期律表とか、都道府県名とか、西国三三ヶ所巡りとかにしなかったのだろう。子供が必死になって「ジスプロシウムーっ」って暗唱しているとか、あるいは「ウツノミヤー」が成長して「トチギン」になるとか、「フダラクヤ」という呪文を唱えるとか、何十年か後に日本人の教養を底上げする意味でそれはそれは役に立ったはずなのに。
現実、子供たちはなんの役にもたたない記憶を刷り込まれることになってしまった。一〇年程あとで「おれたちはなぜあのようなことを一生懸命覚えたのだろう」という記憶の最たるものになると思う。きっと。
「サッカーのゴールの真ん中をとって、バットを置いてあるのはなあに」
「ゴルバットーっ」
謎々にすらなっていない。
なぞなぞ本の一環なのか、一通りポケモンの名前を暗唱し終えた親子が次に始めたのはこんな占いだった。お母さんが本を読み上げている。
「コップがあります。そこに水がどのくらい入っていますか。いっぱいはいっている。はんぶんくらいはいっている。ちょっとだけはいっている」
おや、確かその心理テストは、「性欲の量」というオチではなかったろうか。子供向けにそんなのありか。
「いっぱいはいってるー」
そこでバスは故郷へと到着し、私が判定を聞くことはなかった。それが、心残りである。