ダウザーまで1万光年

 ダウジングをご存知だろうか。地中に埋まっている金属ないし水脈を、実際に掘り返すことなしに知ることができるとされる技術である。たいていは二股になった木の棒ないし直角に曲げた二本の針金を持ってうろうろすると、探知したい物体の上を歩いたときにその棒が回転する、といわれている。また、同じくダウジングと呼ばれる技術には、穴開きコインを糸でつるしたもの(または水晶のネックレスなど、それらしいもの)を地図上でぶらぶらさせて失せ物などを探す、というものもある。

 現在ではこうした棒が回転したりコインの回る向きが変わったりする現象は、無意識による筋肉の運動が引き起こしている、と説明され、一応私たちは納得することになっている。私はこの「無意識による筋肉の運動」が本当にあるものかどうか、自分でいろいろと実験してみたのだがもう一つよくわからなかった。よくわからないものを本に書いてあるまま信じるのでは「霊魂の仕業」であることを信じるのと何も変わらないわけで良くないのだが、そういう筋肉の微妙な動きを読んで被験者の心を読むという技術が奇術として立派に存在しているからには、意識にのぼらない動きというものはやはりあるのだろう。

 棒やコインの動きそのものはそうした筋肉の働きによるものだとして、脳にはまだはっきりわかっていない探知機構があり、それが無意識の筋肉運動を引き起こすのだ、という説明をつけることは一応可能である。これにしても、わかっていないことでわかっていないことを説明しているわけで褒められた態度ではないが、一応つじつまだけは合っている。もっともダウジングのうち地図上でやる探査はちょっと説明できない(これはまあ「こっくりさん」と同じでただの迷信なのだろう)。少なくとも実際に現場で歩き回るタイプのダウジングに関しては、人間の持つ未知の能力が実際に足下の金属や水の存在を関知しているからだと考えられないではない。

 以前星新一氏だったか誰かのエッセイに、理性がダウジングを一概に迷信と退けてしまえない理由に、アメリカの電話会社の工事の人が電話線を埋めた管を見つけるのに実際に曲げた針金を使っている、という事実(らしい)を挙げている。金属探知器などの他の手段が用意されているにもかかわらずである。井戸掘り職人もそうだが、土を掘り返すという辛い労働を行った末ばかを見るのは彼ら自身であるにもかかわらず、ダウジングが行われ、信頼されているという事実には何らかの意味がないはずがない、という主張である。似たような主張は繰り返されていて、特にベトナムで地雷を探知するために使われていた、という逸話は感動的でさえある。なにしろ、探知しそこねた場合彼ら自身が傷つくことになるのだ。

 これはある程度納得できる意見である。長い期間、それなりに多数の人たちによって検証され、実際に利益を生んでいる技術を生み出しているということほど、科学の正しさを主張できる裏付けはないのだから当然である。ただ、日本では正月にこんなにも多数の人が、ひとごみをものともせずわざわざ神社に出かけ、額に汗して稼いだ決して少なくはない額のお金を惜しげもなく投入するからといって、初詣になんらかの科学的根拠があり、御利益が実際に存在するという証明にならないということを考えると、この主張はやや怪しくなる。

 昔、私が小学生だったころ、どこかのガソリンスタンドで給油すると、景品としてこのダウジング棒をくれたことがあって、私はこれを長い間宝物としていた。二本組みになった五〇センチ程の長い針金を、三分の一くらいのところで直角に曲げて、両端に細い針金を巻き付けてある、というものである。このコイル状の針金による装飾が泣かせるではないか。電波を受けるアンテナに似て、なんとなく信頼できる気がする。私はこれを両手で持って庭を、田畑を、雑木林や山の中をうろうろしては土を掘り返した。あるときシャベルが堅いものに突き当たり、掘り返してみると古い木の箱で、中には数枚の小判とともに読めない字で書かれた紙束が収まっていた、となると面白いのだが、そんなことは起こらなかった。カブトムシの幼虫でさえ見つからなかった。ただ、なにやらセトモノのかけらが出土したときがあって、このときはこのまま掘り進んで人骨を見つけてはかなわないので、そこでやめた。

 最近になって、私の生家の近所の空き地に家が建つことになり、工事が始まった。いつまでたってもその工事が終わらないので不審に思って見に行くと、どうやら何かの遺跡が発掘されたらしい。地面が平らにならされて、柱を立てた跡などが掘りだされていた。古い住居跡が見つかったのだそうである。そのまわりを散々うろうろしたのになぜ私は掘り返さなかったのだろう。小学生、弥生時代の住居跡を発見、というニュースになったかもしれないのに。しかもダウジングで発見というダブルクラウンだ。なにがクラウンだかわからないが、もしそうなっていれば、今この職業に就いていないことだけは確実な気がする。

 私はこの輝かしい失敗の歴史にもめげず、去年の年末から探し続けて見つからないロッカーの鍵を探して、ダウジング棒を使った探査を開始した。いまのところ、成果は百円玉が一枚である。迷信でもいいから、見つかってくれないものか、ロッカーの鍵。


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