私と先輩を乗せた乗用車は峠を越えつつあった。新潟の山中、季節は一月。折からの冬型の気圧配置で、日本海側は大雪になった。のちに、記録的な大雪としてテレビに報道された日である。チェーンを巻いた先輩のファミリアは、足もともおぼつかなげに凍りついた坂道を登っている。
昼頃に東京を出発した私たちは、川越街道を北上、途中のカー用品店で泥縄式にタイヤチェーンを購入し、関越道に乗り込んだ。この日の夜から、新潟の山中であるセミナーが開かれることになっていたのだ。明日から五日間、午前中は講義、午後からは自由時間でスキーを楽しむという夢のようなプランである。しかし、その会場が、スキー場に近いということなのだが、山の中のホテルだったのだ。こうして、私たちは自動車で会場に向かっていたのである。
私は助手席で地図を見ている。先輩の車であるし、雪道は先輩が運転することになったのだ。前もってホテルから送られてきたガイドには、コの字になった道路が描かれた簡単な地図が掲載されている。インターを降りてから、三回間違いなく左折すれば目的のホテルに到着するらしい。一度目の曲がり角は問題なかった。二つ目はちょっと迷ってとんでもない狭さの道に出てしまったが、その後引き返して正しい道に出られた。あと一つ、曲がるべき道を見落とさなければ勝利である。もっとも、この場合敗北とは何を意味するのか。あまり考えたくない話である。
「中学校の時、社会科は社会科教室でやってたんですけど、12月とか1月、寒くってしょうがなかったんですよ」
ドライブの基本は無駄話である。私は退屈を紛らわせるためいろいろな話をした。
「へえ」
「で、ところが2月になると急に温かくなって。で、なにが違うのかというと、それまでは地理のソビエト連邦のところをやっていたのが、オセアニアに進んだんです。つまり、寒いところの授業をやっていると寒くってしょうがないということなんですが」
「つまり、この音楽を止めろと」
「てへへ。そうです」
カーステレオから流れていたのは、松任谷由美だった。ブリザード、ブリザード。
二つ目の角の先に続く道は、やがて上り坂になった。地図によると、もうすぐ三つ目の曲がり角があるはずなのだが、ひたすら一本の道が、うねうねと続いているだけである。どこまで進んでもそれらしい曲がり角は見あたらない。それどころか、だんだん道は険しく、周りは山の風景になってゆく。
五キロは進んだろうか。調子よく登っていた車のスピードが、だんだん落ちてきた。坂道をひとつひとつ登りきるにつれて、それにかかる時間がだんだん伸びてゆくのだ。やけにエンジンの回転数ばかり上がっている。「オートマってそうなんですかね」のようなことを言っていた私だが、坂道を登るために必要な力が明らかにだんだん弱々しくなってゆく。
「やっぱり、これは、おかしい」
先輩はそう言うと、車を脇に寄せて止め、車を降りた。車を調べる私と先輩。と、右前輪を調べていた先輩が、いきなり笑い始めた。
「わ、は、はははははははは」
「なに笑っているんですか」
「いやもう、おかしくっておかしくって」
「どう、どうなんです」
「笑うなよ。チェーンが、片方、ない」
「ぷっ」
「ははははは」
「ぶー、ふあっあはははは」
「ははは」
「はは」
「は」
「まさか」
「嘘じゃないぞ」
「はあ」
「冗談でもない」
「どうしましょうね」
「どうしようなあ」
どうしようもなかった。チェーンが無いほうの駆動輪が滑るために、坂道になると回転数の割に進まなかったらしい。というより、もうすっかり周りは山の中なのだが、よく片方だけでここまで登ったものである。私たちは、途中のどこかで脱落したに違いないチェーンを歩いて探してみることにした。左右は高さ三メートル強もある雪の壁である。雪を掘り込んだ溝の中を歩いているようなものだ。山の中とはいえ、道路は明るく照明されており、また降り続く雪が光を反射して、妙に夢の中のようなぼんやりした明るさに包まれている。
私たち二人は、峠を歩いて下り始めた。不思議と寒さはあまり感じなかった。吹雪に包まれているのだが、風は強くはなかったのだろう。曲がりくねった道を、私たちはぽんぽんと飛ぶように歩いてゆく。どこまで歩いても、なくしたチェーンは見つからない。
「このまま、引き返したら車が無かったりして」
「そうなると、遭難だな」
「あはは。いや、笑いごっちゃありませんね。寝たら死ぬぞ、みたいな世界になったりして」
どうも緊張感がなかったのは、山中とはいえ車が比較的行き交っていたからだろう。それにしても、冬山などスキー以外行ったことのない人でも、どういうわけか「眠ったら死ぬ」ということは知っているわけだが、どうして眠ったら死ぬのだろうか。コールドスリープと、言わないかこれは。
「だめだな、見つかりそうにない。どうも、どこかずっと手前で落としたらしい。車に引き返して、山を下りよう」
先輩が、そう言ったのは、十五分ほど歩いて道路を降りたところだった。
「わかりました。そうしましょう」
道はどこまでも続いている。妙な明るさのなかで、しかし視界は吹雪に遮られてほとんど効かない。考えてみれば、これはちょっとした極限状態である。そのまま歩いてふもとにも行けないくらい、既に車は奥地に入っていたのだ。ここから車を止めたところまで引き返せるのか。引き返したところで、脇に寄せて雪溜まりに入った車を引きだせるのか。ここまでのドライブで既に二人はかなり疲労している。坂道を走り降りてきたせいで、息も切れていた。ここから引き返すのか。ああ、疲れた。そういえば、この眠気はなんだろうか。このまま引き込まれてしまうと、楽になるかなあ、などという思考が、頭のどこかにあるのを感じる。
「なんか、雪って白くてふわふわしていて、温かそうですねえ」
「おいおい、冗談で言っているんだろう」
「ええ、でも、ここに倒れ込んだら、楽だろうなあ」
「うるさい、とっとと歩け」
「ねえ、先輩、私のことはいいですから、車に引き返してください。私はここで待ってますから」
「バカなことを言うな。二人で山を下りるんだ」
などと八甲田山ごっこをしたりした。雪国の人。不真面目な私たちを、許してください。
結局ふもとまで車で引き返してから、ガソリンスタンドで新しいチェーンを付けて、無事峠を越えたのだが、それにしても、地図上の、二つ目と三つ目の角の間にある短い直線が、峠を延々越えてゆく十数キロの道だとは思わなかった。雪山はやっぱり怖い。