「これ、あげるわ」
私は、そう言った彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。喫茶店、街角を見渡せる、窓際の席で、向かい合わせに座っている彼女は、鞄から取り出した小箱を、テーブルに置いた。
「ええと、その」
私は彼女の顔と、包み紙に包まれた手帳くらいのサイズの贈り物を交互に見やると、わざと目を伏せ、自分の左脇腹あたりを見て、言った。
「ば、バレンタインチョコ、っていうやつなのか」
「どこ見て言ってるの。そうよ」
いや、今の質問は内なる神に向けて言ったものである。いやはや、こういうことをする人だとは思わなかった。なにしろ、クールで通っている彼女なのだ。そういう俗世の慣習には興味がないものと思っていた。
「その、開けてもいいかな」
と言いながら、もうリボンに手をかけている私。彼女はちょっと考え込むように眉をひそめたが、やがて、言った。
「そうね。その方が面白いかも。どうぞ」
この言葉の前半を、彼女は私の頭上五〇センチくらいのところを見つめながら言っていた。きっと内なる神に向けて言っているのだろう。面白いって、どういうことだ。
「ええと、でもありがとう」
私は包み紙をほどき始めた。ちょっと手元が震えたのが、我ながら情けなかった。本当に、こういうことをするような人ではなかったのだ。一生に一度、初めて花を買って帰ってきた夫の行動に思わず涙がこぼれた妻、というような話をどこかで読んだような気がするが、そういう感覚かもしれない。
「それにしても、どうして急に」
と、私はごそごそと包み紙と格闘しながら言った。
「ま、ね。どんなチョコでも貰えるなら欲しい、なんて言ってたでしょう」
そりゃまあ。そういうものじゃないか。
「君からならね」
ぱっと彼女は顔をこわ張らせる。そのまま口ごもった彼女と私を横から見ていると、まるで私のギャグが滑ったかのように見えるに違いない。私もはじめはそう受け取ったものだ。これが彼女の、照れの表現なのだ、ということを、私は最近ようやく分かってきた。
「わ、ありゃりゃ」
箱を開けて、チョコレートと対面した私は、まずなにか「こりゃ凄い」とかそういう褒め言葉を口にしようと準備していたにもかかわらず、そこに大きく書かれている文字を見て、口からこぼれたのはそんな言葉だった。チョコレートで作られた、大きなハートに、ホワイトチョコの文字で大きく。二文字。
「義理」
そっと私は目をあげ、彼女の顔を見た。ええと、これはその、どういう意味でしょうか。上様。
「義理よ。義理」
でもちょっとだけ義理じゃないの、とかそういうフォローはなしでしょうか。上様。
「義理っすか」
「あんまりチョコレートチョコレート、って言うもんだから。義理であげる、ってわけ」
「ははあ」
ほかにどういう返事ができたというのか。私はさっきの感動を思い出そうとした。できなかった。
「なるほど、気を使わせてしまって、どうも」
私はチョコレートの箱を自分の鞄にしまい込むと、何事もなかったかのように腕時計を見て、言った。
「そろそろ、出ようか。映画の時間だし」
「ええ」
気を落とさずに行こう、明日も太陽は昇ることだし。私はそんな言葉を自分の内なる神から聞いたような気がした。
その晩、自分のアパートに戻った私は、もらったチョコレートを取り出して、一口かじってみた。義理の理の字の里のあたりを半分かじりとる。
「もぐもぐ」
チョコレートなど、長い間食べたことがなかったなあ。私はそんなことを考えながら、しかしさしたる感慨もなく、チョコレートを食べ尽くした。こうなっては、ホワイトデーにどんな仕返しをするか、私はそれしか考えていなかった。実のところ、映画を見ながらも、そればかり考えていたほどだ。
義理のお返しなんて売っているのだろうか。いや、探さずばなるまい。中学校の時に書いた詩をくっつけて送ってやろうか、いやいやそれでは逆に弱みを握られることにもなりかねぬ。
ふと、私はチョコレートの入っていた箱を手に取って、見てみた。私は計画を練る作業をあきらめた。これでは、私がどんなことを考えても、かなうはずがない。
「希望」
チョコレートを食べた箱の底には、そう書かれた紙が一枚残っていたのだった。