そんなにも便利な発想法

 逆転の発想、ということがよく言われる。物事を反対側から見てみる。世の中で言われている解釈に異議を唱え、無理にでも理屈をこじつけてみる。そうすることによって、物事に対する新しい眺め方の訓練ができ、そこから素晴らしいアイデアにたどり着くこともある、というようなことである。

 たとえば、地域振興券について、その弊害、配布方法の不公平さや、景気の回復に本当につながるのかという危惧、あるいは実施にまつわるさまざまな経費の浪費、財源に関するあっけらかんとした展望に対する批判の声が聞かれる。これを聞いて、うむうむ、そうだそうだ、と思うのではなくて、あえて、いやまてよ、本当に悪いことばかりか、と自問してみるのである。
 たとえば、少なくともわれわれに話題を提供してくれたではないか、というあたりを糸口にしてみる。そうだ、景気回復がうまく行こうが行くまいが、この政策が繰り返されるとは思えない。そう考えればこれは、大変な貴重な体験をさせてもらえているということにならないか。まだ見ぬ我が子に対して、お父さんがまだお母さんと結婚していなかった頃にこんな素っ頓狂な政策があってね、と話してあげることができる素敵なエピソードなのではないか。さらに、何とかして地域振興券の一片を手に入れられれば「あっ、せっかくもらったのに使うの忘れちゃってるよ」「これこれ、今そこで子供から巻き上げてきたんだけどさあ」「借りた千円、地域振興券で返してもいいかい」等々、無数のギャグで笑いを勝ち取ることもできるのではないか。ああ、素敵だ。地域振興券万歳。

 こういう思考法は確かに便利である。たとえば、他人と話をしていて「地域振興券というのは、あれは良くないものだね。世紀の愚策だ」と持ち掛けられて、すぐさま「いや、そうは言ってもですね」と、こういう逆転の発想をすぐに披露できれば、あいつは切れ者だ、いろいろな事をしっかり考えている、と思ってもらえるという利点がある。
 しかし、ここが勘違いしやすいところなのだが、だからといって、相手の言葉に何でも否定で答えたらいいというものではないのである。この「まずは否定してみる」というのは、一種のトリック、会話をピッチャーとバッターの関係に例えると、フォークボールのようなものなのだ。要所でうまく使えば効果は絶大なのだが、それだけで会話を組み立てることはできないのである。
 その辺りをあまり深く考えないで「なにしろとにかく否定で受けるのだ。それが大人の味なのだ」と思い込んでいると、発想の妙を生かしたウィットに富んだ小粋な会話になるはずが、単なるあまのじゃくに成り下がってしまうので注意が必要である。

「なあ、知っているか、焼きそばUFOのカレー味が出ているらしいぞ」
 もう二年も昔のことだ。関西限定発売だったかもしれないのだが、カレーUFOというものが確かにあったのである。何気なく大学生協購買部を訪れた際にこれを買い求めた私は、その美味さに感動して、だれかに話さずにはいられなかったものだ。
「早速食べてみたのだが、これがかなり、うまい。まだなら是非食べてみるといい。今なら生協で大安売りをしている」
 へえ、それは知らなかった、おいしいのか、買ってこよう、とか、ああ、食べた食べた。おいしいな、確かに、という答えをするのが普通の人である。あまのじゃくは、これにこう答える。
「いや、食べてみたが、あれはおいしくなかった」
「へえ、どこが気に入らないんだ」
 真の「逆転の発想者」は、ここで、だれもが唸らざるを得ない優れた意見を開陳するのである。確かにカレーは好きなのだが、あれはいかにもカレー粉とソースのバランスが取れていなくて、カレー粉を足さねばならなかったのであると。あるいは、実は親の遺言により「焼きそばにはマヨネーズをかけろ」ということになっているのでありその立場からはどうにもカレー焼きそばは容認しがたいのである、と。しかし、ここでの否定者である彼はただのあまのじゃくであって、単に否定したいから否定しただけなのである。だから「どうしてそう思うのだ」と聞かれると、とたんに困ることになる。
「いや、どこがと聞かれてもな」
 さあ、こっちは面白くない。単なる情報としてこの話題をもちかけただけなのに、いきなり理由もなく否定されたのである。
「あんなにおいしいのに、変わった奴だな」
「うーん、なにしろ、そうだな、なにしろおいしくなかったのだ」
「口に合わなかったか。カレーは、嫌いか」
 こちらとしては何も、個人の好悪について議論したいわけではないのだが。
「いやいや、そういうわけではないが。まあ、うまくなかったのだからしかたがない。うまいと感じるかどうかは、これは個人の味覚の問題だからな。おっと、まさか君、他人の好みにけちをつけるまいな」
 なんのことはない、単に癖で否定をしてしまったがために「生理的な好悪」という極個人的なレベルに逃げ込まざるを得なくなっただけなのである。しかし「個人の好み」というのは、これでかなり強力な防壁である。私は、例えていうなら追いかけていた不良外国人をあと一歩のところで大使館の壁の向こうに取り逃がした小国の警官のような目つきで、引き下がらざるを得なかった。

 のちに、私は、この彼のあまのじゃくぶりを逆用して溜飲を下げるべく、一計を案じた。所用で彼のアパートを訪れたときのことである。その日もいかんなくあまのじゃくぶりを発揮していた彼が、トイレに立った隙に、彼の部屋からカップ麺を見つけた。どうも、彼が後で食べようと、買いためておいたものらしい。
「おまたせ」
 帰ってきた。
「なあ。このカップ麺だが」
「うん」
 くれ、と言ったら多分もらえないだろう。しかし、
「後で食べようと思って買っておいたものだよな。俺が食べる、というわけにはいかないよな」
 彼は、言った。
「いや、そんなことないぞ。どうぞ」
 私は久しぶりに、心の底から笑った。


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