それは夕立のように

「それは、いつもいきなりやってくるのです」
 と、中年の部長は言った。
「事故というものは、そういうものです。あっ、危ない、と思ったときにはもう遅いのです。ですから、みなさんも、普段から安全には十分気を付けていただいていることと思います」
 そこは、彼の所属する化学工場の、HQだった。HQというのはヘッドクォーターの略で、要するに司令部ということなのだが、彼の会社では、彼の席があり、パソコンや電話が置かれたオフィスのことをそう呼んでいた。今日も彼は、HQの一隅を利用して行われる部内の朝礼で、部長の話を聞いているところだった。

 ある化学メーカーの研究員である彼の仕事は、新しい有用な化学物質の製造研究と、その反応を工場での生産向けに大規模化することだった。大学の化学実験室のような研究施設で、新しい反応経路の発見とか、新しい高分子の合成に成功すると、それをそのまま拡大して、工場での生産が可能かどうかを実験する。実験と言っても、この段階になると容量数トンの巨大な反応槽の中での合成である。失敗するとこれがそのまま数トンの、おいそれとは捨てられない、でも何の使い道もないゴミになってしまうのだ。大学の研究室では考えられなかったこういうプレッシャーには、それでも入社して数年、やっと慣れてきた彼だったが、時には数夜におよぶそうした合成実験に立ちあうために、不定期に徹夜が入るのはどうしようもない。今朝も、進行中の実験に付きあって朝方まで起きていたのち、やっと二時間寝ただけでこうしてHQに出てきて、朝礼に参加しているのだった。

「しかし、いつ事故が襲ってくるかわからないのですから、安全に注意するということは、いつも注意している、ということなのです。ボンヤリとした状態で、ただ会社に時間内座っている、というのではなくて、いつもしっかりと周りを見て、その時に最善と思われる行動をなしてゆかなければなりません。八時間、集中です。前へ前へ」
 サッカーじゃないんだから。それに、職場でボンヤリして欲しくなかったら、徹夜を減らして欲しい。彼は、こみ上げてきたあくびを、慌ててかみ殺した。

「そういう意味を込めて、SSS運動というものを実施しようという通達が来ています」
 と、ここで部長は言葉を切った。
「ええ、SSSというのは」
 そこで、部長の顔に浮かんだのは、なんとも言えない「おいしそうな笑み」だった。
「『しっかり仕事をしよう』の略です」
 彼は、がくっと口を開くと、しばらくそのままそうしていた。開いた口がふさがらないとはこのことだ。SiっかりSiごとをSiようかよ。それは「眠っても、眠っても、まだ眠い」をNNNと略すようなものだろう。ああ、そういえば俺、今日NNNなんだよ。眠い中起きてきて、こんな話を聞かされてしまうなんて。だいたい、SSS運動は、具体的に何をしたらいいのだ。しっかり仕事をしたらいいのか。じゃあ、普段の俺は、なんなんだ。

 見れば、彼の斜め前で、同じように部長の話を聞いている先輩が、肩を震わせて笑っていた。気持ちはわかる。NHKが「日本放送協会」だからといって、誰も変だと思わないのに、どうしてこの会社がやるとこんなにも変なのだろう。KDDが「国際電信電話株式会社」だと聞いても別に笑えたりしないのに、どうしてこの部長が言うとこんなに脱力感があるのだろう。せめて「セフティ・スピーディ・サティスファクション」とか英語の頭文字をとってくれていたら。

 まあ、いまさら驚きはしないけどさ、と、にこにこしながらホワイトボードにSSS運動実施中と書いた部長を見て彼は思った。そもそも、彼が入社して以来、会社の景気が良かったことなど一度もないが、そうした不景気への対策として、社が打ち出していた方針が「KHP」だった。入社して初めて彼がその言葉を同じホワイトボードで見つけたときは、なんだろうと首をひねったものだ。その、どうも実施中であったらしい「KHP」が「コスト減らそうプロジェクト」だと知ったときはなんとも、入る会社を間違えたのではないかと真剣に悩んだものである。しかし、数ヶ月後、その掲示が部長の手によって「MN運動」に書き換えられ、その意味が「ムダをなくそう」だと知ったときは、もう驚かなかった。そんなものだとわかったからだ。

 以来、会社は、この「日本語の頭文字をとって並べる」という手でさまざまな攻撃をしかけてきた。競合他社に新製品で差を付けられたときは、社内に「DH」と書かれた貼り紙が貼られた。指名打者ではなく「独創的な発想」だった。毒物混入・中毒事件が相次いだときは、試薬棚に「DAK」と書かれた紙が貼られた。ドイツアフリカ軍団ではなく「毒物の扱いに気をつけよう」であった。それらのアルファベット列を目にして、少し遅れてその意味を知るたびに、彼は創立記念日に間違えて早起きして大学に行ったときのような、きまり悪さと入り交じったむなしさを覚えたものだった。

 会社が実施するSSS式のキャンペーンは、実は久しぶりだった。最近一年ほど、「KHCYKM」と略さなかったのが不思議だが「環境に配慮した地球に優しい企業を目指して」とやらで、会社はISO14000取得に向けて注力していたらしく、久しくこの調子のスローガンは聞かれなくなっていたのである。ところが、会社がひとまずこの環境保全基準に達したとして認定を受けたことで、安心してもとに戻したらしい。ああ、イソ一万四千。朝礼でのこの「やれやれだぜ」という気持ちから僕を守ってくれたイソいちまんよんせん。帰ってきておくれ。

「SSS運動については、次回の朝礼で、どういうふうにSSS運動を実施しているかという事例をまとめて、提出することになっています。みなさん、しっかり仕事をしましょう。ところで、最近の給湯室の使用状況ですが…」
 そのうち、この会社つぶれるんじゃないかなあ。と彼は、別の話題に入って、まだ続いている部長の話を聞きながら思っていた。SSSだかNNNだか、PPPだかKKKだか知らないが、恐ろしく具体性に欠けるこんな方針を打ち出しているうちは。
 彼は、ふっと天井を見上げて思った。こんな方針を打ち出しているうちは。まあ、安心かもしれないな。なんだかんだ言って、間抜けなことを言っていられるうちが花なのかも。照明具あたり一本に減らされた蛍光灯が、今日の彼の目にはやけにまぶしかった。先の見えないどしゃ降りの不景気だけど、給料さえちゃんと払ってくれれば。彼は、部長に視線を戻すと、肩を落として、誰にも聞こえないように、つぶやいた。SSS運動か。
「うん、ま。そんなのも、ちょっと」
 わるくない。


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