君は「宇宙のひみつ」を知っているか。
「宇宙のひみつ」は、学研の学習まんが「ひみつシリーズ」の一巻である。小学生向けに、漫画でいろいろな知識を楽しく吸収してもらおうというシリーズ企画で、その第一巻のこれは、宇宙のいろいろなトピックスについて解説したものである。中身が普通の漫画として読んでもちゃんとストーリーが楽しめるように作られていて、確かピコという宇宙人と小学生の男女が出会うという話ではなかったかと思う。漫画とはいえ大手を振って学校の図書館に置いておける本だから、学校で読んだという方も多いだろう。私は確かこの本を個人的に持っていたはずだが、小学校でも読んだような気がする。
ストーリーは、宇宙探検の途中で太陽系を通りがかったという、光子宇宙船に乗った宇宙人ピコが、地球人の小学生のペア(男の子と女の子)と出会い、かれらとさまざまな宇宙の謎と不思議について語り合う、というものである。物語の最後で、すっかり仲よくなった地球人たちと別れてまた一人になったピコが、がらんとした宇宙船のなかであくびをして「ああ、またこれからたいくつが続くんだなあ」とかなんとかつぶやくラストが印象的で、宇宙の広さとヒマさをひしひしと感じたものである。宇宙船クルーなんかに、なるものではない。
さてこの話の途中で、ピコの宇宙船の艦載コンピューター、これが「スーパーテレビ」という、なんとも七〇年代の香りの名前なのだが、彼が地球人の子供たちの質問に答えていていたところ、ある質問の難しさに、ついに解説を投げ出してしまう、という場面があって、私は質問そのものよりも、コンピューターが(というより、露骨に言って学習漫画が)説明をあきらめたという意外さでこのことを記憶している。質問内容は、地球上の潮の満ち引きは、月の引力によるものだというのはいいとして、どうして月が真上にある時一回だけではなく、月が反対側にあるときにも満潮があるのか、というものだった。「スーパーテレビ」は小学生にわかるようにこの質問に答えるのは不可能です、と白旗を揚げてしまうのである。もっと勉強すれば、わかる時が来ます、とも言っていた。
私がそうだったから言うのではないが、普通の小学生の感想としては「へえ、満潮って、一日二回あるのか」、というところではないかと思う。海辺の街に生まれたら違うのかも知れないが、海釣りが趣味などでよほど海に親しんでいないと、潮の満ち引きというのは、「そういう自然現象もある」程度の知識しかないものではないか。だから、この疑問は、当時の私にとって「ヘムニ族の若者がギメラの実の汁を顔に塗るのはどうしてですか」というのと大差ないものだったのだ。なぜでしょうって、知らないよそんなの、そもそも本当にそうなのか。
まあ、この一日二回満潮がある(はずである)理由は、確かに高校生くらいの知識で自然とわかるようになる事柄である。私も高校の物理で「遠心力」を習ったときにはこのピコとスーパーテレビのことを懐かしく思い出したものだ。しかし、現実の潮汐のことについてどれだけ知識が増えていたかというとこれが、なにも変わっていなかった。さらに打ち明けて言えば、それからこちら、海辺に数日以上滞在するなどして海と関わる生活をしたことは一度もないので、私はまだ本当に一日二回満潮があるのかどうか知らない。
しかし、それを言えば、星の明るさの等級は一段階につき二・五倍で、六等星がやっと目に見える明るさだという記述にあたって、確かに六等星まで見えるという体験をしたことのある人だってそうは多くないはずなのである。私は海辺にこそ住んでいなかったが、山の中の小さな町に住んではいたので、夜空の星には、理想的ではないにせよ、そこそこ恵まれていた。思い出してみれば、そのころ見た星空といったら本当に星が敷き詰められた天幕のようだった。たとえばオリオン座を見て、オリオンが左手を掲げ、右腕で武器を振り上げている配置が見て取れるだけではなくて、そういう星座を作る星と星の間に、無数の小さい星があるのがわかるのである。天の川さえ見えた。
さて、この宇宙人ピコが作中の子供たちと読者の私に教えてくれた事の中には、星には色があって、青い星が温度が高い星、赤い星が温度の低い星、黄色はその中間、ということがあった。おうし座のアルデバランは赤い。オリオン座のリゲルは青い。ぎょしゃ座のカペラは白い。だが、星に関して一家言あってもいい環境で育ったにも関わらず、私はこれがもうひとつよく実感として理解できていなかった。
夏に夜に外に出て、星を見てみる。星座早見表を持ってゆかなくても、どれが「アンタレス」か、ということくらいはわかる。さそり座のまがまがしいSの字の中にある、ひときわ明るい星がそうである。しかし、それが本で読んだような「血のような赤」かというと、よくわからないのだった。わからないというより、全く白に見える。後になって「天文ガイド」片手に赤いはずの火星を探したときも、確かに明るくて、「またたいて」いないからあれが火星に違いないのだけども、それが赤いかどうかとなると、白かなあ、という感想しかもてなかった。
小学生や中学生の頃の私は思ったものである。星の色というのは、確かに分光計などの専門の装置を使えばわかるのだが、肉眼ではそれほどはっきりと見えるものではないのだな、本には大げさに書いてあるのだろうな、と。中学生になると、理科で「このオリオンの左上の赤い星の名前は[ ]」と、星の名前を書くような問題があったりもしたが、私は星を観察して得た生きた知識よりも、もっぱら教科書の暗記で問いに答えていた。
ところが、である。この歳になって、埼玉の町中に引っ越してきて、久しぶりに星を見て気がついたのだが、いまや星を見るとその色が容易に見て取れるのである。オリオン座を見れば、ちゃんとリゲルは青に、ベテルギウスは赤に見える。火星など、まさに真っ赤である。夜空が明るく、星空に関してはかなり貧弱な、オリオンというと手や頭をもぎ取られたただの鼓型の配列にしか見えないような地域に越してきてはじめて、今まで見えなかった星の色がはっきりと判別できるようになったのだ。これはどういうことだろう。視力だって昔より良くなっているはずはないのに。
この疑問に、私はまだちゃんと結論を出せていない。ただ、なんとなく、子供の頃の夜空は、あまりにも光が強すぎて、その色を知ることができなかったのではないか、などと思っている。あまりに大きな音の音階を聞き分けられないように、まぶしすぎた星の光を見分けることなんて出来なかったのだろう、と。
年表を繰って調べるとちょうどベガとかアルタイルくらいの距離だが、光速度に近い速度で旅を続けているはずのピコはもう二十光年のかなたを旅しているはずである。彼が目指している宇宙の果ては、まだあまりにあまりにあまりに遠くて笑ってしまうほどだが、私の頭上の空から星の輝きがすっかり失われたいまなお、私の中の宇宙への憧れは、強い光を放ち続けていることを再確認して、今私は安堵している。