花の名前

 探偵小説の探偵というのは、いつも貧乏で、どうやって生きているのかわからないところがある。たとえば、シャーロック・ホームズは、有名なことは有名なのだろうが、難事件を解決しても、お礼がたくさんもらえているような気はしない。どういう手段で生活の糧を得ているということになっていたのだろうか。「深い」ファンが数多くいるこの世界、この疑問を呈した人が私が始めてではないはずなので、行くところに行けば答えは用意されているという気はする。
 儲かっているような気がしないといえば、そういえば、ルパン三世はお金持ちなのだろうか、という疑問があった。アニメのルパン三世は、ハデに盗みを働く割には「九分九厘うまくいっていたのに、逃走用のヘリコプターから札束がばらまかれてしまいました。残念」というオチになることが多く、事実上赤字となる展開が多かったように思う。そもそも、美術品や宝石など、換金しにくいものを盗んでも収入にはならないのだから、テレビに登場するエピソードだけを見ているかぎりにおいてはいい商売には見えない。ひょっとして、オヤジの遺産を食いつぶしているダメ息子なのではないか。

 私はそこで、野良仕事をしていたのである。アルバイトだった。
 しかも、私が(比喩的な意味で)鍬をふるっているその周囲は、荒野然としているところがあるかと思えば、あるところには高度経済成長期に描かれた未来図もかくやという建築物があるという奇妙な環境なのだった。はっきり書いてしまうと、開催前の「大阪・花の博覧会」の会場なのだった。平成二年の、春である。

 特に花博のバイトというので来たのではない。知りあいに頼まれて近所の造園会社に、大学の春休みのバイトということで行ったら、求人というのが、博覧会から依頼された仕事で、そもそも花博景気で人がいくらいても足りないのだ、ということだったようなのである。兵庫県の山奥の造園会社にまで、こうして求人が回ってくるくらいである、花博が造園業界に及ぼした経済波及効果は確かに大きかったに違いない。

 開催間近の花博会場でその時私がやっていたのは、会場内に作られている池に、なにかの花の株を沈めるという作業だった。何の苗だったのか知らない。多分、蓮のたぐいでないかと思うのだが、渡された株は、スイカ大の、茶色のごちゃごちゃした根の塊だった。朝一番にこの仕事を任されたときには軽トラック一杯あったこの根も、さすがに昼過ぎとなると目に見えて減っていた。進入路の端に停めた軽トラックの荷台から、まず一輪車(手押し車の方)に株を移し替える。それを現場まで持ってゆき、一つとって水に投げ入れる。そのままだと水に浮いてしまうので、株を棒でぐいと押さえつける。しばらくして放してみる。浮いてくる。またぐっと押さえる。何度か試してみて、株が浮いてこなくなったら成功である。誰かがやらなければならない仕事なのだろうな、とは思うものの、あまりにも退屈なのである。

 考えてみれば、これは医学部にはあるという、ホルマリンのタンクをのぞき込んで浮いてきた死体を沈めるアルバイトにそっくりではないか。棒っきれで浮いてこないように押さえつけているところなど魂の双子といっていいくらいである。もちろん、私の「蓮みたいなものを植える」仕事は、ほとんど都市伝説と化した「死体貯蔵槽の守り」というアルバイト界のヒーローと比べると、スペクタクル度も、話のネタになり度も大違いなのである。開催日前の花博会場という、今にもなにかが始まりそうな場所にいるというのに、一日やっていて起きたイベントといったら、池の向こう岸に建てられたパビリオンの一つでオープン式典があって、そこで講演をしていたのがどうやら小松左京だということがわかったということくらいである(アナウンスが風に乗って聞こえたのだ)。数百メートルも離れていたので、どの人影がそうなのか、太っているのか痩せているのかもわからなかった。私が求めているのは、もっとこう、なんというか「『ウォータースライダーの試運転に乗ってみないか』という人が来る」とか「パビリオンから植物と動物の融合体が逃げた」とかなのだ。何かイベントの起こしようはあるだろうに。

 というわけで、私はそこで、棒を操って株を沈めながら、話し相手もなく、人間というのはどうやったら生きてゆけるのだろう、などということを考え始めていたのである。はじめはなんとなく来し方行く末、自分の将来について考えを巡らせていたのだが、やがて、人間はどれだけ最低限働けば生きてゆけるのだろう、などという形而下的な発想に陥ってしまうのは私のいいところかもしれない。そうして冒頭の、小説の探偵って楽そうじゃないよな、私も金持ちの家のダメ息子になりたかったな、という発想につながるのだ。
 さて、思えばこの時はバブル期だったわけで、だからこのアルバイト自体の時給は800円もあり、一日働いて6,000円くらいもらえていた。一週間で三万円、一ヶ月で一二万円である。そのころの私が大学生として、親からいただいていた仕送りは一ヶ月八万円で、しかも結構裕福に暮らしていたから、これから一生、棒で苗を池に沈めているだけで存外気楽に生きてゆけるのかもしれない。理想的な生活ではないだろうか。

 しかし、休みが日曜しかないというのは嬉しくない。では、たとえば自作農というのはどうだろう。よくある水田で面積が一反、一反というと一〇間四方ということになるので、約300平方メートルということになるが、この面積の田からとれる米の量は、普通の食用米で三石五斗から四石になるとのことである。一石とは一人が一年食べる米の量とされているから、一反の田で稲を栽培していれば三人から四人が生活できることになる。もちろん米ばかり食べているわけにはいかないのだが、江戸時代の武士の給料であった扶持米が、三石で侍一人分の最低賃金というほどの計算をされていたのだから、一人なら、食べない分は他人に売るなどして、普通に生活できたのだろう。一人で一反の水田を維持するのがどれだけ大変かというのは、実は私は実感としてさっぱりわかってはいないのだが、何となくいわゆる農繁期以外は、特に冬は、ほとんどなにもすることがないような気がする。晴耕雨読という素敵な言葉もある。

 さらに楽をしよう。冬なんかがある日本だと、どうしても冬の寒さに備えてちゃんとした家に住まなければならないという恨みがある。南の島で生活することにすれば、そんな気づかいもいらないのではないか。何か太平洋戦争のことを書いた本に、戦争中、兵隊として太平洋上の孤島に配備され、そこでしばらく生活した人の手記のようなものがあった。戦争とはいっても、たいして重要な拠点でもない孤島の留守番部隊のようなもので、そこでの生活は大変のどかなものだったようだが、飛行場を建設するにあたって自生していたヤシの木を切り倒したら、現地先住民と深刻な争いになってしまったというエピソードが出ていた。なんでもかの地では、ヤシの木は非常に重要な財産であり、四本所有していれば一人の人間が何不自由なく(食料として、衣類として、また建設材料として使用してなお)暮らせるという優れた資源らしいのである。それを何気なく切り倒してしまったので、その補償に大汗をかいたとのことだった。生活レベルとしてどうなのかはさておき、ヤシの木4本を手入れしているだけで生きてゆけるというのは非常に素晴らしい生活に思える。

 とりあえず手元に一輪車で運んだ分の苗を沈め終わって、ふと辺りを見回せば、池の向こう側にこそ未来都市が開けているものの、背後の丘には、人工らしからぬ、ただうっそうとした森が広がっていた。自然林に似せて作られた森を見ていると、ともすれば池の向こうの情景は全て幻のような気さえしてくる。私はベトコンの幽霊で、戦争が終わったことにも気がつかず、こうしてメコン川の支流に機雷を沈める作業をしているのだ。いや、しているのだ、ではないのだが、そんな気がするほどである。

 つまり、私の住むべきところはここではないのだろう。私は一輪車を押して軽トラックのところへ向かいながら、再び池の向こうを見やった。鉄筋コンクリートとガラスと合成樹脂の未来都市。私はやはり、池の向こうに、未来都市の中に自分の生活の場を見つけてゆくのだろう。望むと望まざるとにかかわらず。

 そうやってまとめを入れながらも、別に今日の仕事はこれで終わりではなかった。時計を見れば時限までまだ3時間。軽トラックの苗の多さに心挫かれるのだった。しかも、この時は知らなかったが、私はこのアルバイトを夏にもまたやることになるのである。お金儲けは楽じゃない。


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