昼下がりの街角で

 とんでもないものを見てしまったせいで、15分も遅刻した。待ち合わせ場所には、じっと街角の大型スクリーンをにらみつけている彼女。携帯電話がない、というのはこういうときひどく困る。もちろん、いつものように私の仕事が長引いたのが根本原因なのだけど。私は、ここへ来る電車の中でお姫さま(しかもフランス風)と護衛の忍者のカップルを見たことを、話そうかどうしようか躊躇しながら、彼女に声をかけた。

「遅い」
 彼女が遅れてきた私にかける言葉は決まっている。いつも一言、きっぱりとこうだ。
「ごめん」
 私はとりあえず謝った。剣幕がすごい、というわけではない。怒った顔をしている、というのでさえない。むしろ、あなたが遅れようと、どうしようと、私には関係ない、という表情だ。でも、それだけというのでもなくて、なんというか。
「で、会場はどっち」
 ペットを飼ったことがおありだろうか。いったん犬や猫を飼ってしまうと、なかなか家族旅行には行けなくなってしまうものだが、それでも泊りがけで一泊くらいは、なんとか我慢してもらって、ということがあるだろう。私が待ち合わせに遅れたときの彼女の表情には、旅行から帰ってきたときにペットが見せる何ともいえないあの表情が、ちょっとだけ見え隠れしていると思うのだ。もちろん、彼女は人間なので、本当はもっと複雑なのだけども。
「何、黙っているのよ」
「いや、いい表情だなあ、と思って」
「なにがよ」
 と、周りを見回すのは、照れているのか、鈍いのか、わからない。

「それで言ってやったのよ。彼のこと、好きなのか、嫌いなのかどっちなんだって。そしたら黙っちゃって」
「うん、それはファジー理論というやつだな」
 と、私は彼女と街を歩きながら、彼女の女友達のことなどを話していた。今日の目的のコンサートは、まあ、良かったね、という感じで終わったが、時間が中途半端で、私たちは夕飯までにはあまりに早い、この街に放り出されていた。ちょっとこういう場所には本当は二人とも歳を取りすぎているな、という街である。ロックバンドの名前が印刷された、安っぽいTシャツが吊られたブティック、きれいな七色のトッピングがほどこされた「何か」を売るファストフード。
「ファジーね」
「いや、俺もどういうことだか最近まで知らなかったんだけど、ファジー制御って、電気器具の」
「最近は、あまり言わないね」
「止めてしまったんだろうか、そんなことないと思うんだけど」
 二人は立ち止まって、まあこれなら、という喫茶店に入った。
「ファジーっていうのはね」
 ウェイトレスに、グァテマラブレンドね、と告げてから私は言った。彼女はケーキセットを頼んでいる。ケーキの名前は、なんだかモンブランに似ているが、ちょっと違っているなにかだった。出てきたものを見ると、やっぱりモンブランだったので、なんだかよくわからない。ゴブリンとホブゴブリンみたいなものか、というとまた小突かれそうなので、やめた。
「60パーセント寒い、とか40パーセント暖かい、とかいう標準を使って扇風機を制御するような理論らしいんだ」
「ふ、ん」
「寒いか、暖かいか、と聞かれるとどっちでもないけど、というような気温のために、そうしてパーセンテージを使って表現して、もっと細かく制御する、というようなことらしい」
「うーん、でもね」
 ケーキの山を半分ほど崩したところでいったんケーキ戦線の凍結を決めた彼女は、エスプレッソを一口飲んだ。
「結局、ある温度の時は、ある回転数にする、ということでしょ、扇風機で言ったら」
 こういうときだ。私が彼女の言葉に、どうしようもなく嬉しくなるのは。私は、表情を読まれないようにコーヒーカップを口に当てると、うなずいた。
「だったら、別にファジーなんて言わなくても、ただの操作の細かい扇風機じゃないの」
「そうなんだよなあ。『寒い』ボタンを押せば扇風機が少しゆっくりになる、『暑い』ボタンを押すとすこし速くなる、それでいいんじゃないか」
「そうそう」
 彼女の返事が短くなったのは、再びケーキに注力しはじめたからだ。圧倒的な進撃の前にモンブランの運命も風前の灯火。私もコーヒーを飲んで一息つくと、
「本当は、温度、湿度、操作者の好みみたいな、いろんな情報を総合して判断するために、ファジー理論が役に立つということらしいけど、確かによくわからないよなあ」
「でしょ、ねえ」
 戦線はモスクワまであと二〇キロメートルを残すのみ、という感じのところで止まっていた。ソ連は祖国を守りきった、のだろうか。
「それ、食べないの」
「うん、あなた、食べる」
 思わぬ援軍の出現により、ケーキはあっさり地上から消え去った。

 喫茶店を出た私たちは、まだ夕方にはずいぶんと早い、昼下がりの街を、駅に向かって歩いた。
「今日、ごめんな、遅れちゃって」
 と、会話が途切れたのをきっかけに、私はもう一度謝っておいた。
「時間を守る気、あるの、ないの」
「うーん、だから、70パーセントはある。30パーセントはない」
「ファジー。なにもかもそうやってパーセントで表したらいいと思って」
 彼女は笑うと、思いついたように、言った。本気なのかどうか、真剣な顔で。
「じゃあ、言えるはずよね。私との約束と、仕事と、どっちが何パーセント大事なのか。答えていただきましょう」

 こういうとき、私がどういう顔をしたらいいのか、知っている人がいたらどうか教えて下さい。


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