世界は、子供のころ想像していたものとは違って、はるかに広くてややこしく、そこで生きてゆくということは面倒で疲れることであった。などとがらにもない言葉で書きだしてしまったかのようだが、底はすこぶる浅いので安心して読み進んで下さい。ええと、本当のところ知識が増えるに従って世界が単純なものから複雑なものに変わってゆくのはやむを得ないことで、そこがこの世界の面白いところでもあるのだが、いわゆる「理想と現実の違い」もまた、そんなふうにして生み出されてゆくのだろう。一例を挙げると、私がなりたかった「科学者」は、白衣を着て研究室にこもって研究ばかりしているものだった。朝ご飯の「焼き立て直送便・たっぷりビーフのカレーパン」をコンビニで買うなどということはしないはずなのだが、どこでどう間違ったのだろう。
朝食のことはどうでもいい。学者としての仕事は、研究をしたあと、論文を書くまでがひとつながりの仕事になっている。私に関して言うと大学院生になるまでこのことが実感としてわかっていなかったのだが、新発見なら新発見、新発明なら新発明ができたらそれでおしまいではなく、論文を書いて、しかるべき学術誌に投稿して採用されて、他人にその仕事の成果を発表するまで、研究は終わったことにならないのだ。理系の学部だと「学生実験」という実験実習でまずこのことを思い知ることになるのだが、この「論文を書く」ということは、実験なんて楽勝楽勝へのへのプーと思えるくらい大変な仕事である。言語が英語ともなればなおさらだ。しかし、この大変さについてはここに書くのはよして、今回は論文発表に付属した小さな、しかし無視もできない問題の一つ、自分の名前をどうするか、について書こうと思う。
「自分の名前に首をひねる」というと「サルまん」あたりを思い出す方も多いと思うが、別に、ペンネームに頭を悩まさなければならないわけではない。当たり前だが、そもそも論文をペンネームで発表する人はいない。あ、いや、ひょっとして一人か二人はいるかもしれないが、たくさんはいないはずだ。自分の名前が気に入らないとか、正体を隠したいとかの理由で、本名が大西なのにジャッキーと名乗って誰が困るわけでも、誰に叱られるというわけでもないのだが、それをすると学会発表のたびに「つぎはジャッキーさん」と呼ばれて登壇するはめになる。いま書いていてそれはそれで楽しいような気がしたが、ジャッキーさんの論文はジャッキーさんが書いたのであって、その仕事の成果を使って就職活動をするのが大西さんでは困るので、やっぱり大西さんであるべきなのである。
なんだか話が最初の目標と微妙に異なる方向に行ってしまった。要するにここで言いたのは、英語で論文を書くときには、英語氏名、つまりローマ字で自分の名前をどう書くかを考えなければならないということである。論文は外国人も読む可能性があるので、大西さんでは困る。ローマ字で名前を書かなければならない。
ローマ字で自分の名前を書くだけで、どこが問題なのか、と思われる方は幸いである。私も、自分の名前が湯川さんや仁科さんなら別に何の悩むところもなかった。Yukawaさんであり、Nishinaさんに決まっている。ところが、ここで問題なのは私が「大西」であるということである。オオニシは、ローマ字でどう書くべきなのだろう。端的に言って「オオ」をどう綴るかという問題である。こういう悩みは、論文の発表名のほかに、クレジットカードの名義のときに味わうことになるが、このどちらも、場合場合によって変えてゆく、ということはあまりしないほうがいい。OhnishiさんとOnishiさんは違う人間だと見なされるのだ。ひとつに決めたら、ずっと同じのを使ってゆくべきである。
手元の学会員名簿には会員の名前にローマ字名前が併記されているので、ちょっと調べてみた。同じ大西さんに三つの勢力があることがわかる。Ohnishiさん、Onishiさん、Oonishiさんである。Ounishiさんという変わり種もあるが、まず前者三つによって大西界を三分しているようである。このうちどれが良いか、というのは趣味の部分もあるだろうが、日本語をまったく知らない外国人が読んだ場合、ちゃんと「オオニシ」に近い発音をしてくれる、という状態が多分ベストなのだと思う。さあ、どれだろう。まず文句無く、Ohnishiは「オゥニシ」と読んでくれそうである。Onishiは「オニシ」だと思う。Oonishiは、ひょっとして「ウーニシ」になるのではないか。
このうちどれを選ぶか、という局面になると、私としてはたとえ貧弱なものでも、なんらかの根拠を持たずにはいられない。この「大西科学」のロゴを見ていただければそうなっているはずだが、私は最終的に「Onishi」に決めた。根拠は「マックのOsakaフォントでも明らかなように、大阪はOsakaである」というものである。確かに「Ohnishi」の方が発音は近いような気がするのだが、たとえば「OH」と書くと「王(オウ)」なのである。私のは大だから「オオ」であって「オウニシ」ではない、と思うのだ。それを言えば、うわびっくりしたの「OH!」は「O!」とも綴るので同じことのような気もするが、この場合正解なしということになるので、断じてこのことは思い出してはいけない。
ともあれ、Onishiとして生きる上で、Ohnishi派からのしめつけは厳しい。勝手に他人にOhnishiさんということにされてしまって逆上し、わしゃあOnishiなんじゃい、大阪や東京だってそうなんじゃい、と抵抗を試みる私の弱点は「尾西」さんというかたが現実にいらっしゃることである。鬼石さんでもよい。このかたがたは、もうOnishi以外つづりようがないので、同じメールサーバを使っているひとに「尾西」さんがいると、私はあっさりとOhnishiさんにされてしまうのだ。一度決められてしまうと、システム管理者でもない私にはどうすることもできない。はじめて会った人と打ち合わせをしていて、あとでメールで連絡するためにメールアドレスをやりとりする場面になると、いつも、あんたOnishiさんちゃいまんのか、いやOnishiさんでんねんけど、メールアドレスはOhnishiやねん、すんまへん、と謝り通しである。幸い、私が今使っているプロバイダでは私が最初のOnishiさんであったらしく、onishiというメールアドレスを得ることができたのだが(※)。
とまあ、こんなふうに私はこのように「オオ」問題について散々考えて、いくつかの戦いも経て、Onishiを貫き通してきたので、これに関してオーソリティのつもりでいた。まあ、ローマ字のことでは私はちょっとうるさいよキミ、という気分になっても無理はなかろう。ところが、そんな自信も、私の後輩に「大井」君が入ってくるまでのことだった。どう綴ればオオイと読んでもらえるか、あなたも考えてみて下さい。