理恵様
前略、お元気ですか。お手紙ありがとうございます。ご無沙汰しております。私は何のかわりもなく、日々を送っております。本当に、あのころが懐かしいほど、平穏な毎日です。
ニュースといってもこちらにはこんなものしかないのですが、最近、アパートの部屋に新しく本棚を買いました。東京に引っ越してきてから今まで、読んだ本をダンボール箱に詰めては、昔の私の部屋に入れておいてくれるよう、実家に送っていました。読みかけの本は、私の部屋のすみに積み重ねて置いていましたし、それで問題ないと思っていたのです。でも、駄目ですね。一年以上もこうして暮らしていると、読みかけの本、というのが本当にたくさんたまるのです。難しくて読み進めなくなってしまった本や、何度も何度も読み返しているため、箱に詰めてしまうのがもったいないような本が増えてくるのです。本棚に入れないと、どうも部屋が散らかってしかたがありません。
ところが、買ってきた本棚に本を片づけてみると、うすうすは気づいていたのですが、その一番上の段から下から二段目までが、ある漫画の単行本で埋まってしまいました。実に何というかいい大人が情けないです。確かに、部屋はぐんと片付いたのですが、なんだか途方もなく無駄なことをしているような気がしています。無駄無駄。
しかし、きっと理恵さんもそうではないかと思うのですが、新しく本棚を買ってくると、自分の持っている本が、あっというまにその本棚一杯になるまで増えてしまうのは、なぜだかわかりませんが、ほんとうのことです。蔵書の数は、そのあとしばらく横ばいを続けて、どうしようもなくなって新しい本棚を買ってくるまでずっとかわらない気がします。本棚がちょうど半分くらい埋まって、まだまだ買ってきても大丈夫、という状態だけはお目にかかったことがありません。私の世界に存在するのは、いっぱいの本棚と、あふれそうになった本棚だけのような気がしています。
そういえば、もう一つ、自転車を停める「駐輪場」というものも、いっぱいか、あふれそうか、どちらかの状態しかないようです。都会というのはどこもそうなのでしょうか。駅前に買い物に行くたびに思うのですが、この駅の近くの道は、いったいどういった政策の末にこういう惨状を呈しているのだか、ほとんど人ひとりが通れる幅を残して、びっしりと歩道に自転車が停められているのです。道の向こうから別の自転車がやってきたら、よほど注意しないと自転車に乗ったまますれ違えません。東京というのは恐ろしいところです。一度あの自転車の列の上をロードローラーか何かで平らにならしてやればよいのではないかと思うのですが。
いっぱいだといえば、私の会社の駐輪場もそうです。建物に備えられた、立派な屋根付きの駐輪場は、いつ来ても満車で、自分の自転車を停める余地がどこにもありません。いつも私は、ガチャガチャと他の自転車をかき分けて押し込んで、手探りで前輪の鍵をかけて、その後でえいやっと、前かごに入れた荷物を取り出すのですが、特に鞄にノートパソコンなんかが入っている場合には、伸ばした手が震えるほどの力が必要だったりして、ここだけの話ですが、隣の罪もない自転車に思わず八つ当たり尖鶴突を打ち込んでしまったことも一度や二度ではありません。
そんな毎日を送りながら、それでも私は考えました。どうして私がこんな苦労をしなければならないのでしょうか。この会社には、そんなに自転車通勤の人の数が多いわけがないのです。最寄り駅からバスに乗る人もいますし、自動車で通っている人も多いのです。こんなに駐輪場が一杯になるほどの自転車が、出てくるわけがないのです。そもそも、いつでも駐輪場が一杯、ということからして変で、この自転車の持ち主だって、時々は家に帰っていなくてはおかしいじゃないですか。
そう思って見てみると、どうも怪しい自転車が多いのです。あるものはサドルにぶ厚いホコリがかぶっていて、持ち主が立ち漕ぎで体を鍛える主義でもない限り長い間だれにも使われていないのは明らかです。またあるものは、前かごにトレーナーが一枚入っているのですが、吹き込んでくる雨に濡れたり、落ち葉が舞い込んだり、虫がそこで死んだりしたすえ、前かごがなにか肥沃な大地に変貌してしまっています。これも持ち主がクワガタムシの養殖場をそこで経営しているなどということがないかぎり、やはりかなりの長期間、うっちゃられたままのようなのです。
そうです。たぶん、転勤かなにかでいなくなった人が、そのまま自転車だけ放置しているのではないかと思うのです。そうでなければ、どこからか自転車を盗んできた近所の人が、ここに乗り捨てたに違いありません。だとすると、この自転車を駐輪場からひっぱり出したとしても、誰からも文句がでないのではないでしょうか。死人にクチナシと申します。今では指輪も回るほど、クチナシの花は白い花です。クチナシ色素って白なんでしょうか、理恵さん。
そう決意した私は、上司に黙って、闇に紛れてこれら腐りかけの自転車どもを引き出すと、駐輪場の外の、雨のあたる、半分森のような場所に停め直しました。思えば、どうにも駐輪場が一杯すぎて、割り込めもしない朝、私はよくそこに自転車を停めるはめになったものです。その日々も、今日で終わる、と私は思いました。
で、どうなったかというと、ああ、理恵さん、主観的にはなんだかまばたきする間もなく、駐輪場はまたいっぱいになってしまいました。ひどいです。二台分のスペースはまったくどこかにいってしまいました。どうも、少しずつ自転車の間隔が長くなったのか、新しい自転車が増えることで吸収されてしまったようです。職場はみんないいひとばかりですが、駐輪マナーは最低です。
とりとめもないことを書きました。というわけで、私は、今日も自転車をゴチゴチと押し込みながら、毎日を元気に暮らしております。どうか、ご心配なく。仕事が忙しくてお盆には帰れませんでしたが、お正月にはなんとか都合をつけて道場にも顔をだしたいと思っております。まだまだ暑いですが、お体に気を付けて。師匠や龍一さんにもよろしくお伝えください。またお便りします。
ひろし。
追伸。ところで、私が駐輪場の外に押し出した自転車に、今日蔦がからまりはじめているのを見ました。こうして少しずつ、自然に帰ってゆくのだなあ、などと思いました。