少年少女たちにとって、十歳、小学校四年生というのは魔法の一年である。小学校の年長としての義務もなく、しかしその能力は既に一通りの日常生活をこなせるまでになっている。外国語の習得が最も早いのがこの歳で、これより以前だと成長とともに忘れてしまい、これより後だとあくまで第二の言語として外国語を覚えるだけになるところが、このころに二カ国語でしゃべる機会があると、生涯二つの言語を母国語のように操る能力を得ることができるのだそうだ。また、アイザック・アシモフという人が、講演会で「答えにくい質問」をしてくるのはほぼ確実に十歳の子供だ、と書いたりしている。世間知に長け、しかし過度に他人を思いやるということをしない。まさに十歳とは、必要最低限の能力と、まだ常識のタガがはまっていない性格を合わせ持った絶妙なタイミングなのだろう。
ご他聞に漏れず、私もまた小学四年生の一年間を、夢を見ているような日々の中で過ごしていた。あとで考えてみると、非常に漫画的な、空想的なことばかりしていたと恥ずかしくてならないのだが、この魔法の一年間を無駄にせずに過ごしたという点では、ちょっとは褒められてもいいのかもしれない、と思ったりもする。小学校六年生がやるのは恥ずかしい、だが小学校二年生には出来ないことばかりだからだ。
たとえば、十歳の私は「ロボット」を製造したことがある。散髪屋でないほうの、母方の祖父は実は大工だったのだが、彼が仕事を引退したときに、大量の大工道具を私たちに残してくれた。これらは全くのプロ向けの工具であって、障子の溝を掘るためのカンナなどという珍しいものもあったりした。といっても小学生に使いこなせるのはせいぜいノコギリや金づちといったものだが、道具があれば使いたくなるのが人情である。私たち兄弟は、夏休みを模型船舶製造や竹とんぼの空力追及などの、木工スキルの上昇にあてた、その到達点の一つとして、身長一メートルほどのロボットを組み立てたのだった。
材料は数枚のベニヤ板の端切れと、もともと鍬か何かの柄だった木の棒数本、それにペンキである。まず適当な大きさに切った板と棒で足を組み立てて、その上に箱形の胴体を作る。やはり棒で作った両手を付けて、小さめの箱を頭として組んで胴体に釘で止めつけて、塗装を行う。その上で細かい仕上げをして出来上がりである。兄弟三人で、夏休みの長い午後をまるまる一杯かけて作ったこのロボットは「デンゴン」と名付けられた。伝言ロボットなのである。胸にはメーターがついていて「おります」「一時間ほどで戻ります」「畑のほうを探してみて下さい」といったメッセージを指し示すようになっていた。デンゴンが手に持っている伝言板(デンゴン板)はメモ用紙が備え付けられており、家人にメッセージを残せるようになっている。さらに胴体はスロットが設けられた郵便受けでもあるのだった。
書いてみるとかなり実用的なものじゃないか、と思うのだが、言ってしまえば小学生が無計画につくったロボット型オブジェである。必ずしも使いやすいものでもなく、玄関に立たされたそのロボットは、それからずっとそこにそうして立っていたことはいたのだが、実際の伝言の役にたったような記憶はない。ただ、新聞配達の人がもののわかった人で、郵便受けが別にあるにもかかわらず、新聞を毎朝デンゴンの胸に差して行ってくれたのが嬉しかった。
このロボットが突然動き出して私たち兄弟の友人になった、ということにでもなれば実に藤子・F・不二雄的であって、私たち兄弟はそれを期待、いや確信さえしていたのだったが、まあそういうことも起こらず、デンゴンは一年ほど郵便受けとしての役割を果たした後に、台風か何かで損壊して、片づけられることになった。写真の一枚も残っていないのが残念でならないのだが、まずこれも全て美化された思い出の中にのみあるべきものかもしれない。
さて、その小学校四年生の夏には、もう一つ、やっている最中からしてひどく漫画的だと思った出来事があった。ある日、仲良くしている友人達が家にやって来て、いつもの遊びへの誘いかと思ったら、
「なあ、大西君、野球のチームを作ったら、入るか」
と言ったのである。
「えっ、少年野球以外に、か」
と私は聞き返した。私の小学校には、部活動はなかったものの、それに近い課外活動はあった。ファイアーズと言ったのではないかと思うが、少年野球もその一つだ。運動部は男子にその野球部、女子にバレー部があったきりだったので、小学校で運動が得意、とみなされている子供は大抵それに入っていた。その実力は郡で優勝争いが「時にはできる」というレベルだったと思う。つまりまあ、大したことはないのだが、といって遊びでやっているようなものでもなかった。父兄のうち高校野球経験者を監督として招いて、かなり真面目にやっていたのである。
「どういうこと、野球のチームって」
「俺らでな、新しいチーム作るんだ。で、最終的にはファイアーズを倒す」
今なお、いったいどういう情熱が彼をしてそうい決意に駆り立てたのかわからない。少年野球チームに入っている友人(チームへの入団は、まさに四年生からできることになっていた)の誰かと喧嘩をしたのだろうか。あるいは、チームから入団を断られたとか、練習について行けなくてやめてしまったことがあるとか、そんなところだろうか。そういえば、彼は後に、中学で、当時はずいぶんマイナーなスポーツだったサッカー部に入り、「サッカーは野球と違って雨でもやるんじゃおりゃあ」と雨のグラウンドを、でこぼこぼこにしてしまうことで有名な人間になるのだった。やはり何らかの恨みを野球部に持っていたのだろうか。
「いやでも、僕、野球に自信なんか」
ないのだ。あったらファイアーズに入っているのである。
といいながら、普段私が遊んでいる仲間が、ほとんどこの彼の作った新たな野球チームに入ってしまったため、遊び相手がいなくなってしまった私も結局は新チームに入ることになった。チームの名前はクリケッツ。親に頼んでいろいろ調べてもらってやっと知ったのだが、こおろぎ、という意味らしい。今思えば、クリケットという競技が他にあるので、なかなか変なネーミングではあるし、「こおろぎ」対「火炎」では「飛んで火に入る夏の虫」という格言を思い出して仕方がないのだが、誰がこういうことを企画するのか、チームの帽子とユニホーム(体操着に、アップリケをいれたもの)が用意されたりした。頭文字がCだったからか、赤の入った広島カープ系統のデザインだったと思う。
私たちは、それからの一ヶ月ほどの間、放課後、児童公園のグラウンドに集まってそれなりの練習を続けた。ランニングから始まって、キャッチボール、ノック、打撃練習。本式の少年野球とまではいかないまでも、ある程度の練習をしていたと思う。もっとも、肝心の陣容といえば、もともとファイアーズに入らなかった、つまり運動がそれほど得意ではない子供が集まっているわけで、客観的に見て下手くそ以外のなにものでもなかった。体力テストの「ソフトボール投げ」で前代未聞の十メートル台を出した私が入っているのだからおして知るべしである。とにかく、人数だけはちゃんと九人揃っていたのが救いだった。
こういう「第二野球部」が存在しているという話を聞いてファイアーズにいる子、ないしその関係者が快く思うはずはないのだが、おおかたの反応は「あんなものは遊びだ」というものだった、と聞いている。まったくその通りである。ではあるが、こういうことを言われて奮起しなかったらそれは信頼に足る人間ではない。
というわけで、私たちは苦しみながらも練習を続け、いくつかの斬新な練習法や頭脳プレーもあって、普通の練習を続けているだけのファイアーズに戦いを挑み見事にこれを打ち破ったのである、ということにでもなれば、実にこれも漫画的で素敵だったのだが、もちろんそうはならなかった。ぼろ負けでもいいので、試合が一回あったらそれだけで報われたところだと思うのだが。実は、記憶をどうたどってみても、このクリケッツがどういう末路をたどったのやら、覚えがないのだ。ただ、そういう役どころだった私が、挑戦状の文案を考えさせられて、書きまでしたのは確かなので、本当に正規のチームに挑戦状をたたきつけるという、なんとも恥ずかしく、また失礼なことをしたはずなのだが、いったいどうなってしまったのだろう。あの、私の小学校四年生を象徴するような無謀な作文は。
つまり、たぶん、こおろぎだけに、無視されたのだと思うのである。