電車やバスの車両、また見方を変えれば学校のクラスがそうであるように、見知らぬ人と人とが強制的な外力によって一緒になる場所にはしばしばドラマが生じる。エレベーターもまたそんな場所の一つで、誰もが日常よく利用して、狭い密室であり、目的地までは逃れようがないから、そのドラマは余計おもしろくなる。「あなたが一人で乗っているエレベーターに、何かが乗ってくる」という状況を使ったコンテストの一つでも開けるほどである。ずっとその場で駆け足しているジョギング姿の人、「ポレポレのグロクしすぎは身体に悪い云々」などと始終夜迷い事をつぶやいている人、ウマ、泣いている乳児、両手でハサミをチョキチョキしている散髪屋、シャーマン、防護服を着込んでカナリアのカゴを下げた男、制服警官一〇人、野村監督というふうに、こう挙げてみるとなんだか座布団の数が点数がわりに上下するたぐいのコンテストだが、まあなにもそんなコントに走らなくとも、「顔見知りではあるが親しくはない人と乗りあわせて、挨拶をしたまま目的階までずっと無言」というのもなかなか辛くて、一種のドラマには違いない。
さて、エレベーターの中に一人だと、こういうドラマはなにも起こらないのかというと、そうとも言えない。そもそも、エレベーターの中というのは、一人で乗ったりすると実に手持ちぶさたな、どうしようもなく空費される時間である。ついつい何か読むものを探してエレベーターの中で視線をさまよわせてしまう。そうか、エレベーターが止まったらあの電話のアイコンのボタンを押せばいいのか、でもこれって本社東京と書いてあるけど、どれくらいで助けがやってくるのかなあ、などと考えて怖くなったり、定員九名で積載量六〇〇キログラムだと一人六七キロむむむむむはぁとやり場のない憤りを感じたりしたことがある人は決して少なくないと思う。
そのエレベーターもまた、こうした密室のエレベーターの一つだった。地上と地下にある実験施設をつなぐこのエレベーターは、地下で実験をしようとする人のほぼ全員が日常的に使っているたった一つの交通手段なのだ。健康のため、あるいは決して速くはないこのエレベーターを待ちかねて平行した階段を使う人もいるにはいたが、そんな刑事ドラマのような真似をする人はめったにはいない。実験施設のあるレベルは、普通の数え方では地下四階にも相当する深さなのである。
そのエレベーターの中に、看板が貼ってある。「実験室から出るときはしっかり手を洗いましょう」といった標語である。さっきも書いたようにエレベーターの中で一人だと、これはもう退屈でしかたがないものだから、エレベーターの壁に重要なお知らせや標語を掲げるアイデアはなかなか優れていると言える。この戦略がどんなにうまくいっているかというと、この標語、英語と日本語が並記されているのだが、その英語の方に、どうも一度間違ったのをあとから直したらしく妙に幅の広い「n」がある、などといったささいな話題を、この実験施設を利用する人が一人残らず知っているということからもうかがえるだろう。しかし、もっと大きな問題がある。この看板は、マグネットでエレベーターの内壁にはり付いているのだ。
あなたが、一人でエレベーターに乗って、そこに看板が貼ってあったとして、ある日ふと、その看板が簡単に着脱できることに気がついたとしたら、どうだろうか。たぶん世界には、ふーん、あ、いや、どうといわれても、と澄んだ目でただこちらを見返す天使のような人もいるのだろうが、私のページの読者にはたぶんそのような方はいないと思う。ちなみに関西ではその種の人々は昭和二十年代に遺伝子プールから消滅した。最近では小学校の道徳の授業で「ボケ方」を教えるのでなおさらである。そう、なにかその看板に、ちょっかいを出さずにはいられないのだ。
私がそれに気がついたときに何をしたか。看板をひっくり返して貼り直すのを手始めに、九十度回して貼って心意気を示したり、斜めにしてこの社会に対して訴えたいことを看板に託したりした。壁の隅に移動させていじけた様子を演出してみた。隅との間に直角三角形を作ってピタゴラスの定理を表現してみた。天井に貼って忍者ものに突入したりしてみた。毎日毎日、必ず誰かが元の位置に戻しているのがまたおかしくて、私は看板を移動させ続けた。
――そして。そして、ほどなく私は、先輩から聞いた言葉にいきなり冷や水を浴びせかけられるのである。
「毎年、毎年、この季節になると看板が動き出すんだけど、しばらくしたら飽きて動かなくなるんだよねえ。で、また看板が動き出したら、ああ、新しい人が入ってきたんだなあ、って思うわけ」
わたしは、断腸の思いで、こう言うしかなかった。
「へえ、そんな馬鹿な人が毎年入ってくるんですねえ」
数年後、この看板は、マグネットのところに接着剤を塗って、壁に完全に固定されることになった。たぶん、誰か長年この実験施設にいる人が、繰り返される同じボケに心底うんざりしたのだろう。看板はもう同じ位置のまま、びくともしない。しかし、私は、今でも時々、エレベーターで一人になったときに、そっと看板を引っ張ってみることがある。何かの拍子に接着剤が剥がれたら、どんなにかここが素晴らしい空間になることだろう、と思うのである。なにしろ、今度私が思い付いたネタといったらそりゃもう面白くて、しかも誰も考えついたことがないはずなのだ。